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Category: 明けない夜の向こう側 第三章   1/1

明けない夜の向こう側 第三章 1

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櫂は華桜陰大学を卒業後、町医者になる道を捨て、そのまま大学病院に籍を置いていた。高校の時から、何かと目をかけてくれた印南教授の研究室に入り、腎臓外科を目指すことになっていた。「鳴澤君。二病棟の渡部さんの浮腫の治療はどうなった?」カルテを片手に、専任教授の印南が、新人医師の櫂に問う。「絶対安静が必要なんですけど、家業があるのでなかなか難しいみたいです。むくみを取るために利尿剤の助けを借りることになり...

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明けない夜の向こう側 第三章 2

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久しぶりの休日。今は、ほとんど寝台にいるしかない郁人を見舞って、櫂は扉を叩いた。「どうぞ。ああ、櫂くん……帰っていたのか」郁人を診察する望月は、今や親しげな視線を向けるようになっていた。櫂は印南教授の意見や新しい技術、薬の名などを惜しみなく望月に伝えるようにしている。町医者レベルの望月には、櫂のもたらす新しい情報は、喉から手が出るほど必要な物ばかりだった。「望月先生。郁人の様子はどうですか?」「あま...

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明けない夜の向こう側 第三章 3

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櫂を見る陸の、変わらぬ黒目勝ちの瞳が、ふっと細くなった。「……にいちゃ。郁人寝てるみたいだよ」「そうか。背中で揺られたからかな」周囲に人のいないのを確かめて、櫂は切り出した。「……あのな、陸。正直に言ってくれ。おれはずっと心配でならなかったんだ。望月に何もされてないか?」「望月は……にいちゃが医者になってから、おれに手を出さないんだ。にいちゃが偉くなったって思っているのかな。前は……何か分からないけど……変...

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明けない夜の向こう側 第三章 4

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望月医師は、青年に向かっても、華桜陰大学出身だと告げていたらしいが、それはそうありたかったという虚言だった。それほど学業が優秀ではなかった望月は、医師になりたい夢を持っていたが大学受験すらできずに挫折している。望月の両親は、不出来な息子を思い心を痛めていた。「あれは、今度の試験も芳しくなかったようだね」「誰に似たのか……何度家庭教師を変えても駄目ですわ」「まあいい。わたしが何とかしよう」出来ない子供...

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明けない夜の向こう側 第三章 5

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櫂が師事する印南教授は、戦前米国へ国費留学をしたほどの優れた医師だった。米国では親族間の腎臓移植を手掛けたこともあり、日本有数の腎臓病の権威として名をはせ新しい治療方法にも明るかった。米国にも友人が多く、新しい技術や新薬の情報はいち早く手に入れることができた。腎臓移植は、重い腎臓病の患者を救う唯一有効な手段だが、日本ではまだあまり一般的ではない。移植手術をする前段階として、長時間の透析をして、体内...

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明けない夜の向こう側 第三章 6

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郁人に最新の治療を尽くせたのは、鳴澤家が日本でも有数の金持ちだったからに他ならない。透析を始めて二週間後、郁人は奇跡的に意識を取り戻し最悪の状態から脱出した。傍に居る櫂に向かって、寝台の郁人は瞼に青い隈(くま)を拵えて、薄く微笑んだ。あれ程むくんでいた顔が、嘘のように細くなって細かな皺が頬に目立っている。透析によって、体内に溜まった老廃物や毒物がうまく排出されたのだろう。腫れが引いて、くっきりとし...

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明けない夜の向こう側 第三章 7

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鳴澤は大学側と交渉し、病院内の郁人の特別室の隣に透析室を作らせ、個別に看護婦を雇った。郁人に不自由の無いよう、鳴澤家の使用人も常駐させることにした。いつ起こるかもしれない出血に備えて、鳴澤の会社の社員や、櫂の大学の友人が毎日、郁人の為に輸血してくれることになった。週に三度、透析治療を受ける郁人の状態は見違えるように良くなり、顔色もよくなった。やがて郁人は、一人で病院内を散策できるまでに回復した。周...

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明けない夜の向こう側 第三章 8

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鳴澤が部屋を出てゆくと、印南教授は思わず櫂に本音を吐露した。「鳴澤さんには、酷な話だっただろうか?もう少しうまく話ができればよかったのだが……」病気の子供を抱える親に、真実を告げるのは、いつも気を遣う。どれ程、言葉を選んでも、受け取る側に医師の真意が思惑通り伝わるとは限らない。「……いえ。義父には、教授の善意は伝わっていると思います。いつかは伝えなければなかったのですから。それと……郁人の事で、僕からも...

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明けない夜の向こう側 第三章 9

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必死になって息子を守ろうとする鳴澤は、一度は立ち消えになっていた根本的な治療の計画について蒸し返しそうとしていた。戦争末期、秘密裏に国内で行われた母から子への移植手術は失敗に終わったが、一時的に娘が持ち直したことを鳴澤は覚えていた。仕事上の付き合いのある米国人から、海外では既に移植手術が何例も行われているとも聞いていた。「このままでは郁人はいずれ亡くなってしまうだろう。成長しないまま、永らえたとし...

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明けない夜の向こう側 第三章 10

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内心の動揺を押し殺して、最上家令は旦那様に話をしてみようと答えた。最上家令と笹崎と共に、櫂も本宅へ急ぎ向かう。果たして陸は無事でいるのだろうか。望月が性急に事を運ぼうとしないでいてくれるよう、思わず願った。義父の希望は、櫂にはよくわかっていた。誰よりも何よりも郁人が大切で、それは全ての事業を手放し、自分の命を投げうったとしても一片の悔いもないほどの、どこまでも深い愛だった。大きな会社の運営をし、時...

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明けない夜の向こう側 第三章 11

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しばらくして、寝台の上で気づいた陸は、横に置かれた櫂の手に指を伸ばしそっと握った。「……にいちゃ……おれ、なんでここにいるの……?」「眠ってしまったんで運んで貰ったんだ。義父さんが、みんなで一緒に食事でもしようと言ったらしいんだが……仕事が入ったみたいだ。気が付いたのなら、向こうの家に帰ろうか」「そう……久しぶりだったのに、残念だったね……お父さんは忙しくても、郁人のお見舞いも毎日欠かさないし……体を壊さないと...

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明けない夜の向こう側 第三章 12

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やがて、入院中の郁人は腎臓摘出手術を受けることになった。それは移植手術をするための、準備段階だった。相変わらず、郁人の血圧は高く貧血が酷かったので、使われていない腎臓を摘出した方が、状態が良くなるのではないかと、印南教授は鳴澤に摘出手術を勧めたのだ。「郁人」布団に潜り込んだまま、郁人は拗ねていた。「いや」「郁人……わがままはいけないよ」「やだ」可哀想だが、言い含めねばならない。生体腎移植を行う前に、...

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明けない夜の向こう側 第三章 13

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教授は通話中だった。部屋を出て行こうとすると、興奮した面持ちで、その場に居ろと手で合図を送ってくるので、扉を閉めて待った。会話は早口の英語ですべてを聞き取りできなかったが、どうやら新しい薬の話をしているのだろうと理解できる。「鳴澤君。クリーブランドから朗報だ」「ユタ大学ですか?」「そうだよ」印南教授は誰かとの電話を終えると、喜色満面で櫂の方に向き直り、興奮の面持ちで両腕を取った。過去に留学していた...

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明けない夜の向こう側 第三章 14

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数カ月後、待ちに待った新薬が日本へ届けられた。日本医師会が、腎臓移植経験のある医師が所属する総合病院の中から、条件を絞って候補を選抜し、臨床試験が行われることになった。臨床試験は、動物実験で十分な研究を重ねた上で、患者を選別し術後に新薬投与を行うものだが、移植を待っている患者は多く、使われる腎臓は、死体腎、生体腎共に十分とは言えなかった。華桜陰大学では、郁人が生体腎手術後に投薬される最初の患者とな...

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明けない夜の向こう側 第三章 15

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鳴澤は手術室の前に置かれた長椅子に座り、表示灯を見つめていた。「郁人……」手術中……赤いその灯を見つめていると、東京大空襲の炎が瞼の裏で揺らめいた。天上まで昇る赤龍が、地上を嘗め尽くし見渡す限り火の粉を降らせる。誰もかれも、空を仰ぎ見て絶望に慟哭した。まだ深川が戦禍に遭っていないころ、鳴澤は美代吉という芸者を愛人として囲っていた。本名を吉永美代子と言った。出会った頃、本妻は線が細く、生まれた子供も身体...

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明けない夜の向こう側 第三章 16

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「此度の落籍(身請け)の話は、なかった事にしてくださいな。子供はあたし一人で育てます。鳴澤様には何の関係もありません。どうかお引き取りください。そして、もう二度とお越しにならないでください。お目にかかることももうありません」「そんな……」「痩せても枯れてもこちとら、辰巳芸者だ。惚れたはれたで気持ちが動いても、札束で頬を張られて、はいそうですかとお腹を痛めて生んだ我が子を、他人に差し出すような女じゃない...

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明けない夜の向こう側 第三章 17

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鳴澤が、陸と郁人に血のつながりがないと知ったのは、手術後の事だった。表示灯が消され、郁人が集中治療室に運ばれてゆくのを追おうとして、鳴澤は櫂に別室へと呼ばれた。「お義父さん。手術は上手くいきました。郁人の左の腸骨窩※に植えた腎臓は問題なく動いています」※普通は小骨盤腔のことを骨盤腔という。大骨盤腔は上前方へ広く開いた部分で,その左右両側部は腸骨でできており,その部は軽くへこんでいるので腸骨窩という。...

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明けない夜の向こう側 第三章 18

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移植手術を受けた後、これまで透析で栄養を取られていた郁人の身体は、目に見えて成長した。「おや、郁人くん。また、身長が伸びたんだね」「はい」定期検診に訪れた郁人の顔は薔薇色で、細身ではあったがすっかり健康的だ。少年の面影を残しながら、病に打ち勝った郁人は大人になろうとしていた。細面の秀麗な顔は、亡き母に似ている。「印南先生のおかげです。透析は苦しくて、いつも嫌だったけど……今は免疫のお薬だけだから、と...

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明けない夜の向こう側 第三章 19 【最終話】

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陸が目覚めた時、櫂は傍に居た。しばらくぼんやりと目をしばたたかせていた陸が、はっと気づいて、必死に櫂に問うた。「……にいちゃ。郁人は無事なの?手術はどうなったの?」「大丈夫。お義父さんが傍に居るよ。印南教授の患者さんが下さった腎臓が、郁人のお腹の中でちゃんと働いている。郁人の話を聞いて、使ってくださいって言ってくれたんだ」「そっか……それで、おれはどこも痛くないんだね。郁人は、うまくいったんだ……良かっ...

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明けない夜の向こう側 【後書き】と今後について

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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。ふらつきながらも、何とか着地できました。読後感だけ気を付けながら、話を進めてきましたが、あまり起伏がなかったのと、夢落ちっぽいのが、自分では反省点です。……(´・ω・`)腎臓透析、腎臓移植の黎明期のお話を書こうと思ったのは、かなり前です。四国には、廃棄腎を治療後、他人に移植腎として使用した一匹狼的な医師がいて、色々物議を醸しておりました。一部では赤ひげともい...

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