波濤を越えて 44
出逢った時と同じ服装で、大きなデイバッグを背負ったフリッツは、静かに部屋を出た。
離れがたくなる別れの言葉は必要なかった。
窓からそっと階下を見下ろすと、見送る正樹に気づいたフリッツが笑顔で大きく手を振る。
「フリッツ……!」
窓枠にしがみついて、正樹は慟哭した。
もうどれだけ名前を呼んでも、手の届かないところに行ってしまった。
初めて好きになった異国の人は、もう二度と自分の元には戻ってこないだろう。これほど誰かを好きになることも二度とないかもしれない。
大きなフリッツの姿を瞼に焼き付けて、正樹の切ない恋は数日で終わった。
フリッツも、正樹への思慕を募らせていた。
荷物の外側にあるポケットが膨らんでいるのに気づき、飛行機の中で確認した。
数枚のキャンソン紙に、描かれたのは、アジサイとアイリスのいくつかのデザインだった。じわりと目じりに涙が浮かぶ。
「正樹……」
くすんだ色合いの下地に、似合う藍色の花々。
フリッツがローテンブルクの工房で働く陶芸マイスターがだと知った正樹が、内緒で描いたものだった。正樹に渡した、ミルクピッチャーの下地の色が塗られていた。
元々、販路を広げる下調べのために、日本を観光したフリッツだった。魅力的な島国は、フリッツの絵心を刺激し、いくつもの参考になるモチーフを手に入れることができた。
正樹の贈ってくれた手描きの花模様も、きっとフリッツの新しいシリーズになるだろう。
できるなら飛行機の窓から飛び降りて駆けより、背骨が折れそうなほど正樹を抱きしめたかった。
甘い言葉を紡げば、恥じらって薔薇色に染まる華奢な……愛おしい青年……
できるだけ早く、正樹の元に戻ろう。
機上でそう固く決心をしたが、母国に帰ると事態はかなり深刻な状況だった。
叔父の会社を守るために、フリッツはギリシャに渡り奮闘することになる。未払い金を回収するのに、かなりの時間を要することになる。
「すまなかったなぁ、フリッツ。折角の旅行を切り上げさせてしまった」
「いつもお世話になっているのだから、このくらいは当然です。それに叔父さんの会社が潰れてしまったら、路頭に迷うのはわたしも一緒です。ここで頑張らないと」
「違いない。わたしも精一杯頑張ろう」
工房の片隅に、フリッツは正樹の描いたデザインを飾った。
ピンでとめた優しい絵は、同僚たちの目にもとまる。
「これは?」
「素敵だろう?旅先で仲良くなった人がプレゼントしてくれたんだ」
「いいね。君の作る器に映えそうだ」
「そのつもりだよ」
「どんな人が描いたの?」
フリッツは嬉しそうに告げた。
「これを描いた彼は、とてもシャイで可愛いんだ。日本で知り合った」
「へぇ。いい旅行だったんだね」
「素晴らしい国だったよ。知らない国で、誰かにひと目で恋に落ちるなんて、陳腐な物語の中だけだと思っていたが、本当に恋に落ちてしまった。彼に早く会いたいよ」
フリッツは遠く離れた正樹に思いをはせた。
本日もお読みいただきありがとうございます。
ここまでで、一応ひとくぎりとなります。
次は再会までのお話です。
離れがたくなる別れの言葉は必要なかった。
窓からそっと階下を見下ろすと、見送る正樹に気づいたフリッツが笑顔で大きく手を振る。
「フリッツ……!」
窓枠にしがみついて、正樹は慟哭した。
もうどれだけ名前を呼んでも、手の届かないところに行ってしまった。
初めて好きになった異国の人は、もう二度と自分の元には戻ってこないだろう。これほど誰かを好きになることも二度とないかもしれない。
大きなフリッツの姿を瞼に焼き付けて、正樹の切ない恋は数日で終わった。
フリッツも、正樹への思慕を募らせていた。
荷物の外側にあるポケットが膨らんでいるのに気づき、飛行機の中で確認した。
数枚のキャンソン紙に、描かれたのは、アジサイとアイリスのいくつかのデザインだった。じわりと目じりに涙が浮かぶ。
「正樹……」
くすんだ色合いの下地に、似合う藍色の花々。
フリッツがローテンブルクの工房で働く陶芸マイスターがだと知った正樹が、内緒で描いたものだった。正樹に渡した、ミルクピッチャーの下地の色が塗られていた。
元々、販路を広げる下調べのために、日本を観光したフリッツだった。魅力的な島国は、フリッツの絵心を刺激し、いくつもの参考になるモチーフを手に入れることができた。
正樹の贈ってくれた手描きの花模様も、きっとフリッツの新しいシリーズになるだろう。
できるなら飛行機の窓から飛び降りて駆けより、背骨が折れそうなほど正樹を抱きしめたかった。
甘い言葉を紡げば、恥じらって薔薇色に染まる華奢な……愛おしい青年……
できるだけ早く、正樹の元に戻ろう。
機上でそう固く決心をしたが、母国に帰ると事態はかなり深刻な状況だった。
叔父の会社を守るために、フリッツはギリシャに渡り奮闘することになる。未払い金を回収するのに、かなりの時間を要することになる。
「すまなかったなぁ、フリッツ。折角の旅行を切り上げさせてしまった」
「いつもお世話になっているのだから、このくらいは当然です。それに叔父さんの会社が潰れてしまったら、路頭に迷うのはわたしも一緒です。ここで頑張らないと」
「違いない。わたしも精一杯頑張ろう」
工房の片隅に、フリッツは正樹の描いたデザインを飾った。
ピンでとめた優しい絵は、同僚たちの目にもとまる。
「これは?」
「素敵だろう?旅先で仲良くなった人がプレゼントしてくれたんだ」
「いいね。君の作る器に映えそうだ」
「そのつもりだよ」
「どんな人が描いたの?」
フリッツは嬉しそうに告げた。
「これを描いた彼は、とてもシャイで可愛いんだ。日本で知り合った」
「へぇ。いい旅行だったんだね」
「素晴らしい国だったよ。知らない国で、誰かにひと目で恋に落ちるなんて、陳腐な物語の中だけだと思っていたが、本当に恋に落ちてしまった。彼に早く会いたいよ」
フリッツは遠く離れた正樹に思いをはせた。
本日もお読みいただきありがとうございます。
ここまでで、一応ひとくぎりとなります。
次は再会までのお話です。
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