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Category: 明けない夜の向こう側 第二章  1/1

明けない夜の向こう側 第二章 1

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戦後、上野で出会った御堂櫂、吉永陸の二人は、揃って陸の父親、鳴澤征太郎に引き取られ、鳴澤姓を名乗ることになった。陸の父親は、多忙なため、早々に二人を笹崎に預けると仕事に戻った。初めて、父親の屋敷に足を踏み入れた二人は、敷地の広さに圧倒され、内心すっかり怖気づいていた。鉄の門をくぐってから、車寄せのある大きな玄関に着くまで車はしばらく走り、ここまで広大な屋敷を想像していなかった二人は驚くばかりだった...

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明けない夜の向こう側 第二章 2

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前時代的な着物の中に埋まるようにして、少女は顔を上げた。「うふふっ……滑っちゃった」「郁人さま……おいたが過ぎます。お熱が出たらどうなさいます。苦いお薬を飲ませてくださいって、望月先生にお願いしますよ」胸を撫でおろした世話係の袖をつかんで、郁人は涙ぐんだ。「いや、いや。ばあやの意地悪……くっすん……」櫂は少女の愛らしさに、すっかり目を奪われていた。今まで生きて来て、これほど美しい子供に会ったことはない。施...

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明けない夜の向こう側 第二章 3

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借りて来た猫のように、二人は並んで腰を下ろした。「……郁人さまの事をお聞きになられたんですか?驚いたでしょう?」「あ、はい」笹崎は二人の手の中に、甘い紅茶の入ったカップを持たせた。「郁人さまには、姉上がいらっしゃいましてね。由美子さまとおっしゃって、とても気立ての良い利発な方でした」「ほかにもまだ姉妹がいたのか」「ええ、そうですよ」「初めて聞くことばかりだ……」「そうですねぇ。今生きていらしたら、由美...

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明けない夜の向こう側 第二章 4

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郁人の朝は、小鳥のように早い。空が白み始めた頃から、そっと部屋にやって来て寝台の上に跳躍する。ばふっ!「兄さま、朝ですよ~」「ん~……郁人?……まだ、早いよ。夜が明けたばかりじゃないか……」「櫂兄さまは、とっくに起きていらっしゃるのに、お寝坊さん」うふふっと笑う、いたずらっこの郁人は、相変わらず女の子のようで可愛くて、男児と知っていても時々陸は扱いに困ってしまう。「にいちゃは、受験勉強が大変なんだから、...

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明けない夜の向こう側 第二章 5

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出立の朝、櫂は大きなトランクを手にしていた。「少しの間の辛抱だ。休みには帰ってくる」背も伸び少し大人びた櫂を、見送る陸は眩しそうに見つめた。寝る間も惜しんで努力を形にした、自慢の兄だった。「元気でね、にいちゃ……あの、手紙書く」「おれも書く。じゃな。風邪ひくなよ」櫂は巻いていた襟巻を、陸の首に巻いてやった。櫂のぬくもりに、ふわりと包まれて陸は泣きそうになる。以前から、櫂は家を離れて進学する意を、陸に...

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明けない夜の向こう側 第二章 6

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「うわああぁあーーーっ……」「郁人さまっ!?」運転していた笹崎は、揉みあっているように見えた二人が、同時に窓から転落したと勘違いし、必死に現場へ急いだ。「陸さまっ!」「笹崎さん、だ、大丈夫。郁人は落ちてないから……っ」刈り込んだ背の低い植木が、屋敷をぐるりと囲んでいるのが幸いした。心配して覗き込む笹崎に、大丈夫だと応えたが、地面に叩きつけた足の痛みに呻いた。陸の体重と衝撃を、茂った庭木が受け止めてくれ...

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明けない夜の向こう側 第二章 7

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櫂は陸から手紙をもらった。部屋に戻る時間ももどかしく、中庭で手紙を広げた。「えっ」そこには郁人をかばって、二階から落ちた事が書かれてあった。驚いて読み進めてゆくと、生垣のおかげで、大した怪我もせずに済んだこと、父が驚くほど狼狽したこと。そして、鳴澤に向かって、初めて心からお父さんと呼べたことなどが書かれてあった。「……そうか。良かったなぁ、陸」「おや、鳴澤君。どうしたね、随分楽しそうじゃないか。大事...

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明けない夜の向こう側 第二章 8

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陸は、鳴澤の家に引き取られて以来、これまで自由だった。明るく快活に、使用人のいる生活にも少しずつ慣れながら、少年らしく日々を過ごしていた。引き取られた当初、郁人と同じように、家庭教師をつけて勉強させればいいと鳴澤は告げたが、一度に環境を変えるのは良くないだろうという、最上家令の意見を聞き入れて近くの中学に編入した。だが、郁人が貧血で倒れたあの日から、少しずつ周囲が変わり始めた。まず、足の傷が癒えて...

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明けない夜の向こう側 第二章 9

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笹崎は訴えた。「最上さん……あれでは、陸さまが余りに可哀想です。まるで陸さま個人には何の存在価値もないような物言いじゃありませんか。いくら、亡くなった奥様の弟だと言っても、人を人とも思わないようなあんな態度はない。何も知らない陸さまがお気の毒です」「陸さまに情が移るのも分かる。笹崎……あの子はとてもいい子だ。だが、今は望月先生の言う通りにすべきだとわたしは思う。由美子さまの哀れな最期を忘れたわけではな...

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明けない夜の向こう側 第二章 10

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思い余った陸はペンを握ったが、その内容は日常を切りとった取り止めのないものでしかなかった。櫂に心配を掛けたくない思いで、結局、陸は自分の置かれている状況を記せなかった。もしも、書いたとしても最上家令の指図で、手紙は櫂の手には渡ることのないよう回収されたに違いない。そういう意味では、屋敷の使用人全て、陸の敵だった。週に一度の尿検査は、郁人に一度蛋白尿が出てから三日に一度実施されることになり、郁人と陸...

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明けない夜の向こう側 第二章 11

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あれは、上野で暮らしていた頃だった。日々の生活と生きてゆく苦しさに負けて、櫂はたった一度、陸を捨てようとしたことがある。「にいちゃ、おれを捨てないで……」 そう言った陸の握りしめた拳は震えていた。口下手な陸の思いが何かわからないが、隠していることがあると、櫂は気づいた。「すみません。車を戻してください」「櫂さま。あいにく外泊届けは出されていません。寮の門限に間に合わなくなってしまいますよ」「忘れもの...

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明けない夜の向こう側 第二章 12

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櫂は、試験後、陸に伝えた通り鳴澤家には帰らなかった。以前から考えていたことを調べるために、誰にも言わず独り深川の地にいた。知り合った頃、母親は深川で芸者をしていると、陸が言っていた。物心もついていないような子供のいう事で、その頃には事実かどうか確かめる術もなかったが、今はもうおぼろげになってしまった記憶を手繰って、母親の事を確かめるしかないと、櫂は一つの決心を固めていた。空襲によって、深川の町は焼...

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明けない夜の向こう側 第二章 13

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おそらく芸者上がりなのだろう。30そこそこの、あか抜けた女だった。小股の切れ上がったと形容するべきだろうか。店と言っても、食べる物が不足している今、大したものは無い。馬や牛に食わせる飼料用のジャガイモを揚げて、商売をしていた。少し焦げた屑芋をいくつか小皿に取り分けて、五円だよと笑った。「男前の兄さん。辻光代はあたしのおっかさんだよ。出かけているから、帰るまで、ちょいと待っておいでな」「はい。待たせ...

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明けない夜の向こう側 第二章 14

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櫂の話を聞き、40半ばの女性はしばらくしてやっと口を開いた。時間があるなら、このまま店が終ってからゆっくり飲みながら話をしようと、誘ってくれた。勿論、櫂に異論はない。「あんたの弟の名前は、吉永陸……というんだね。そうだね。吉永という名の芸妓は、うちではないけど確かに深川の置屋にいたよ」「そうですか」思わず櫂は身を乗り出した。「吉永という苗字は、あたしの知る限り深川じゃ一人しかいなかったから、覚えていた...

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