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恋蛍 

湖上颯(こじょうはやて)の建築事務所に、短い文面の一葉の葉書きが届いていた。

『蛍を、見に来ませんか』

「蛍か……もう、夏だな」

そういえば、床材の納期が遅れたせいで、二ヶ月も奏(かなで)の見舞いに行っていない。
協同で事業を進めている最中に吐血した、颯の想い人、如月奏(きさらぎかなで)は、現在、遠くの結核療養所で独り闘病していた。
何も求めない寂しい恋人が、どんな思いでこの一文を暑中見舞いに添えたか考えると、胸がつきんと痛んだ。

夏季休暇をとると秘書につげ、そのまま颯(はやて)は逃げるように車中の人になる。
段取りなど聞いていたら、どうせ休みなど取れるわけも無かった。
賑やかな雑踏の都会から離れて、病の奏は独り白い建物に囚われていた。

山を登り切った深い緑の森の中、遠く現実世界から隔離されて結核療養所はあった。
行く日を伝えると、また寝ないで毎日、指折り数えて待つだろう。
身体に障ると思って手紙を書かず、いきなり出かけることにした。
驚く顔と喜ぶ顔が見たかった。

車窓から流れ込む緑の濃い草いきれに、どこか消毒薬の臭いが混じリ、病院が近くなったと教える。
音も無い、孤立した空気ばかりが澄んだ山の中。
広すぎる誰もいない面会室に、中々逢えない恋人が所在無げに佇んでいた。

「奏(かなで)!」

「え……夢……?」

目を丸くした奏が、信じられないと言う面持ちで小首をかしげる。
逢えると思って、面会室にいたわけではなかった。

「幻じゃないぞ。ほら、触ってみろ」

関節が浮いて、細くなってしまった指をそっと握り頬に持っていってやった。
白い小さな手のひらが力なく颯(はやて)の頬をなでた。
くせの無い髪が、顔の周りで柔らかくゆれる。

「……温かい」

慕うように、とん……と胸に身を預けてきた奏(かなで)がどれほど颯(はやて)を欲していたか、忙しい恋人は知らない。
口にしてしまえば、きっと仕事の無理をすると分かっているから、何も言わない物分りのいい恋人の定命は、残り僅かだった。
また、影が薄くなった・・・と、口には出さないが颯の心も会えた瞬間冷えた。
逢うたび身体は薄くなり、肌はどんどん透明になって行き、やがてはこの清浄な高地の大気に溶け込んでしまうのではないだろうか。
不安になるほど瓏たけた奏の笑顔は、颯の胸に迫る。

医師に許されて、面会人は奏の部屋に一泊できることになった。

「蛍を見に来いと書いていたな」
「ええ。水が澄んでいるからでしょうね。たくさんいるんです。ほら、ここからでも乱舞が見えるんですよ」

肩に頭を預けて、遠くを指さした。

如月財閥の代表は、油断すると病室に仕事を持ち込もうとするので、今や電話も取り上げられていた。
それでも、小さな机の上に洋書とタイプライターが置かれているのを見て思わず、颯が笑う。

「これは、退屈しのぎですから、奪わないで下さいね」

医師が奏の病状を告げて去り、やっと周囲に遠慮が要らなくなって、颯は恋人を引き寄せた。

「欲求不満で死にそうなんだ。抱いてもいいか?」

熱のせいだけではない潤んだ赤い目が、ふっと悲しげにほころんだ。

「いいんですけど……腿の肉が削げてしまって、自分でも悲しいくらいなんです。ご覧になったら、きっと萎えますよ」

部屋着にしている浴衣は、薄い木賊(とくさ)色 で、病人を余計に儚げに見せている気がした。
腰骨が浮き出て痛々しかった。
寝台に倒し、割り広げるとふる……と、経験が浅く大人になりきれない薄桃色の幼い容(かたち)が揺れた。

「相変わらず、可愛いな」
「それが二ヶ月もほったらかしにした挙句に、言う言葉ですか?」

嬉しくないと、本気で睨んでいた。
微熱続きで、しっとりと吸い付く肌が誘っていたが、辛うじて颯は手を退いた。
肌を合わせるのは、体力が消耗するから止めろと、友人の医者に意見されていたのをふいに思い出す。
体にさわる指が躊躇した。

「すっかり貧相になってしまったから……抱けませんか?」

颯は知らないが肺病の熱は、実は情欲を伴う。
悲し気に下から覗き込んだ濡れた瞳に、そうではないのだと横合いから告げても、俯いたきりぱたぱたと涙が転がり落ちる。
こうして側にいながら肌を合わせて慰めることも出来ないなんてと、自分を責める自尊心の高い恋人の脆い心が震えていた。
引き寄せて、涙を吸ったら息を詰めた。
そっと唇を割って、逃げる舌を吸い上げた。

「ん……っ」

煽る言葉を吐きながらも、実は二人は数えるほどしか結ばれてはいない。

「奏、ほら。触って」

奏の手を取り、前立ての上からそっと芯を持ち始めた自分のものに触れさせた。

「こうなるのは、お前にだけだ」

嬉しげに目を細めたら、堪った涙が溢れ落ちた。
健気な寂しい恋人に、颯の決心がなし崩しになり、薄闇色の陰が一つに溶けた。
長い口付けだけで、吐精できるはずも無いとわかっているから、奏はぎこちなく恋人の前に跪く。
口腔は熱のせいでたぎり、拙い愛技は懸命に時間をかけて続く。
馴れていない舌先が熟れた果実をやわやわとくすぐるのが、腹立たしいほど愛おしかった。

「あ……っ」

ふいに、込み上げた発作に耐え切れず、口許を押さえた奏が唐突にぱたりと倒れこむ。
立ち上る血の匂いに耐え、肩で息をする弱ってしまった恋人を優しく抱き上げると、ささやいた。
中途半端なまま捨て置かれた怒張は切なかったが、颯はうむと耐えた。

「ほら……、蛍も焦(じ)れている」

暗い室内に、どこから紛れ込んだものか一匹点滅を繰り返していた。

「来年は、湯治場で蛍を見ようか」

恋人に満足に奉仕できない自分が悔しくて、奏はごめんなさいと哀切に啼いた。

「ぼくはあなたに、もう何もしてあげられない。湯治など、もう無駄です」

虚しい慰めが傷つけるだけだと知って、颯は抱く腕に力を込めた。

「颯……颯……胸でラッセル(雑音)が鳴るんだ……。おじいさまが、彼岸で手招きしているんだよ。おまえも早く、死んでお終いって」
「そんなことあるものか」
「死ぬのはこわくないけど、ぼくは、颯の居ない世界に行くのが辛い……」
「だったら、ずっと側にいろ。君なら、星だろうと風だろうと鳥だろうと構わん」
「あぁ、颯……今すぐ、この腕の中で、逝きたい……」

耳朶に甘い三文芝居のような台詞を繰り返し、二人で酔った哀しい最後の逢瀬だった。



当時、不治の病といわれた肺病で、奏は次夏までもたなかった。

今も覚えている、息絶えた時の細い長いため息。
多忙な日々、全開の窓に向かって時折、颯は微笑む。

「奏」

恋人を求めて点滅する蛍が、窓枠にとまっていた。




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