淡雪となりて 4
動けないはずの詩音が、どっと是道に覆いかぶさり土の上に押し倒した。
どんどんと腹に弾のめりこむ感触が伝わる。おそらく腕を立てたまま詩音は背後から銃弾を食らっている。是道は下から魚のように跳ねる詩音を見上げる格好になって、壕の底に転がっていた。
戯れのような露兵の短い攻撃の後、静寂が訪れていた。
「詩音っ!詩音っ!?」
どっと被さって倒れ込んだ血の気のない真白い顔が、必死に問う。
「わ、若さま。ご……無事で……?」
「ああ。詩音が庇ってくれたから大事ない。お前は?」
口の端から一筋の血を垂らし、詩音は微笑んだ。
「すみ……ません……く、喰らってしまい……ました。」
「もう遅いから、敵軍も動くまいと思ったのに……。さあ、早く横になれ。傷は思ったよりも浅いぞ。」
出まかせを言いながら、そっと重傷の詩音を滑らせると、身体を入れ替えた。
「御終いになる前に……詩音は……若さまにお伝えしたいことが有ります。あの……紫子さまの事です……。」
「済んだことはいい。今度、暗くなったら一気に駆け下りて小隊に合流するぞ。背負っても大丈夫か?痛むか?」
「いえ……もう……それよりも……詩音は、紫子さまに無益な悋気を焼きました。誰かに若さまを取られるのが嫌で、大奥さまの言葉を聞いたのです。佐藤さまの時もそうです。若さまが佐藤さまをお慕いしておられると、存じていましたのに……わざと、若さまが嫌われるように……持ってゆき……ま……した。」
「もう、いいと言うのに。」
詩音は苦しい息の下から、必死に是道に伝えた。
「わたくしは……若さま大事といいながら、いつも若さまを困らせてばかりでした。佐藤さまにも……例え若さまがお好きでも、誰にも……若さまを渡したくなかった……のです。詩音は、自分だけの……」
広がってゆく黎明に、砂地が詩音の大量の血を吸って、色を変えたのがわかる。
「……まったく。詩音は意外と鈍いんだな。……ぼくが何も知らないとでも思って居たのか?」
「若さ……ま?」
「ぼくらは、出会った時から二人で一対だったろう。何年、一緒に居ると思って居る。裏で何をしようと、お見通しだ。それでもぼくは、詩音が傍にいるのを認めていたんだ。ぼくには、昔から詩音だけだった。今もそうだ。」
「若……さ……。知って……?」
「無論だ。だから、ぼくを置いて一人で逝くのは許さない。みな許すから、傍にいろ。いいな?」
「………あぁ……。このまま、お傍に居られたら……。」
是道は問わず語りに話をした。誰も味方の無い鬼の住処で泣いていた時、覗き込んだ同い年の男の子がどれほど日々の慰めになったか。共に泣いてくれたのが、どれほど嬉しかったか。義母の怒りに晒された時、老女の振り下ろされる恐ろしい竹鞭の下に入り、是道の代わりに何度も受けて熱を出したのを今も覚えている。
ふっと、詩音が笑った。
「若さまは……大層、お可愛らしかった……。」
「そう言えば……ストームの戦利品として、美術部にこういう格好をさせられたな。ぼくが、長椅子の上でおまえを抱いたのを覚えているか?寮生がみんな見に来て、気恥ずかしかった。」
「は……い……実はあの絵は……ここにあります……。」
美術部の連中が、二人に有名な彫像と同じ姿勢を取らせ、こぞって木炭で絵を描いた。実は詩音の背嚢の中には、その時貰った一枚が大切にしまわれている。出征前に、高価な湿板写真を二人で撮ったが詩音は二人並んだ写真ではなく「ピエタ」の絵を持って戦場に来ていた。傷つき倒れた殉教者(詩音)を、聖母(是道)が抱き慈愛に満ちたまなざしを注いでいる憧憬の絵だった。
小さな声で詩音は歌っていた。懐かしい華桜陰高校でストームの折りに、上級生が押し寄せて歌ったデカンショ節の替え歌だった。
『淡雪がちらちら……武蔵の宿に アヨイヨイ
猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイ ヨーオイ デ……』
「懐かしい。短い時間だったが、実に楽しい日々だったな。」
『桜並木の……華桜陰の……文武鍛えし……美少年 ヨー…… ………』
「詩音……?」
是道が抱えた従者は、突然がくりと重くなった。
その瞳は主をひたと見据えていたが、もう何も映してはいなかった。
白鶴と呼ばれた端整な青年は、望み通り主の腕の中で首を倒し最期を迎えた。失血の体温低下で、詩音は生きながらにして心臓が凍りついてしまっていた。
柔和な微笑みを向け、主に腕を回そうとしたままこと切れていた。
朝の鈍い陽光が重い雲に隠されていた。白い襷は血を吸って、今は目立つこともない。赤黒く色を変えた凍傷の指が半分もげかかって労し(いたわし)かった。冷たい従者の頬に、是道は唇を落とし囁いた。
「詩音。おい、呑気に眠っていないで顔をあげないか。朝が来るぞ。」
決死隊は殆どが死滅し自軍は惨敗した。
勇猛果敢な北海道の一個師団は、実に一万四千人を失って、たった千人の傷ついた兵士が這う這うの体で帰参した。檄を飛ばした師団長も重傷を負いやがて絶命した。
部隊とはぐれて壕に残っていた是道は、物言わぬ詩音を抱えたまましばらく顔を見つめていたが、やがて天を仰いだ。
「……一人で逝くな……と言い置いたのに。」
決して諦めるな、天を見ろと馬上の友人は叫んだ。
だが、是道が見上げた曇天には一筋の光も陽も見えない。厚い雲に向かって、是道は叫んだ。
「……良太郎―……っ!教えろ……この空のどこにいるんだ……?ぼくは、どうすればいいん……だ?」
「良太郎。ぼくの詩音が……死んだ。ぼくを支えるものは何もなくなってしまった。ずっと、傍にいると約束したのに、ぼくを置いて逝くな……詩音。死にに来たぼくを一人残して、お前が先に逝ってどうするんだ……ばか……。」
是道は詩音の亡骸を抱きしめて、半時もじっとしていたがやがて凛と首(こうべ)をあげた。
息絶えた詩音の軍服の中に手を入れ、小型の手りゅう弾を見つけると、自分の上着の合わせにしまった。
白い襷をほどくと少量の酒を浸し顔を拭いた。眼窩が窪みやつれたとはいえ、如菩薩と言われた美貌は戦地に不似合なほど端整で際立っていた。兵帽を脱ぐと、手櫛で髪を整え是道は立ち上がった。
ぐいと、気付け用の強い酒を一気にあおる。
腰に佩いた軍刀を差し上げ、壕の上に駆け上がるとただ一人、山上の要塞に向かう。
敵が何人そこに居ようと、捨てに来た命に未練はなかった。
今日もお読みいただきありがとうございます。
もう、今年も終わりですね。 大掃除、頑張ってます。(`・ω・´) 此花咲耶
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