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終(つい)の花 31 

話は戻る。
松平容保と共に、京都へ入った会津人の実直な仕事ぶりは目覚ましかった。
帝の覚えも良く、狼藉を働く不逞浪士にうんざりしていた京の人々は、颯爽と取り締まる会津兵の働きを喜んだ。
尊王攘夷を謳う浪士の狼藉は、無意味に天誅を叫び人殺しをするばかりか、商家に押し入り金銭を強要することもあった。
抗えば家人が酷い目に遭った。
金を出さなければ、嫁入り前の娘や若い妻が強奪されることもあった。
泣きつかれた無能な町方は手をこまねき、悪党に手出しするのを躊躇するばかりだった。
脱藩した浪士は強奪した金を懐に入れ、祇園や島原で遊興に耽った。遊女屋で代金を要求すれば、白刃をちらつかせる按配だった。
その多くが尊王攘夷を上段に振りかざした、傲慢で無知なならず者のような行いでしかなかった。

直正も含め会津藩士には、幼いころより「ならぬことは ならぬ」精神が叩き込まれている。
教義のようにして叩きこまれた武士道を支えに、役に立たない町方、町奉行を当てにすることなく彼らは必死に働いた。
このころ、ともに不逞浪士の駆逐に当たった壬生浪士隊、のちに新撰組と名乗った彼らの求める「尽忠報国の誠」は、会津藩の士道「忠義」と同じものだった。
壬生狼と呼ばれた彼らは、最初寄せ集めの浪士隊に過ぎなかったが、会津藩という公儀の後ろ盾を得て、幕府に至誠を捧げた真の武士になった。だからこそ容保も召し抱えたのかもしれない。
中でも局長の近藤以下、試衛館で腕を競い合っていた面々は、身分こそ郷士(身分の低い武士)や百姓だったがひとかどの人物が多かった。
彼らは容保に拝謁し会津藩お抱えの約束と、「新撰組」の名前をもらった。
会津藩預かりとなった新撰組が取締りの主導となり、狼藉を繰り返す不逞浪士は、京の町より駆逐されてゆく。
矜持を持ち至誠を尽くす新撰組の面々は、直正ら会津藩士ともウマが合った。
どちらも生真面目な質だった。
交流を持ちやがて会津での決戦が決まった時も、多くの者が会津へと同道する道を選んだ。
誰よりも武士らしくあろうとした多摩生まれの百姓が進むのは、紛れもなく高潔な武士として義に生きる道だったからだ。
誰よりも会津主従を理解したのは、武士になりたかった彼等だったかもしれない。

しかし、良い面ばかりではなかった。
会津藩が正式に召し抱えた新撰組の働きで、多くの仲間を失った尊王攘夷派の憎悪と憤怒は、決して攘夷一辺倒ではなかった会津一藩に向けられた。
降りかかる火の粉を一身に受け止めた会津の悲劇の種は、ここにも芽吹いていた。

*****

京都守護職拝命以来、正しい道を行く容保の誠実な人柄と清廉な志を目の当たりにした帝は、次第に容保に惹かれてゆく。
朝廷と幕府を取り持ち、正しい公武一和を進めようとする真っ直ぐな眼に、追従、媚、名誉欲などの曇りはなかった。
容保の胸にあるのは、ただひたすらの忠誠だけだった。
孝明天皇も内心では争いを好まず、できれば幕府と揉めるのを極力抑えたいと願っていたが、その意思は近習によって都合よく捻じ曲げられ抑え込まれていた。
容保は鬱屈した暗い帝の心に、一筋差し込んだ光明のような存在となってゆく。

長州藩と結んだ強硬派の公家達に、心ならずも傀儡にされていた孝明天皇は、同じ公武一和の思いを持つ容保に、対面後、特例を持って自らの緋衣を下賜している。
出仕の際に、下された緋衣と共に、陣羽織か直垂(鎧の下に着る着物)にでもせよとの言葉を掛けられた容保は、感激のあまり思わずはらはらと涙をこぼした。
帝が容保の参内をどれほど待望していたか、このことだけでもわかる。

長州藩の息のかかった公家達に宮中でないがしろにされ、誰も信じる者がいない寂しい帝の本心を、近衛忠煕によって内密に届けられたご宸翰(直筆の手紙)と御製(和歌)で知った容保は、自らに寄せられた縋るような思いを知り胸を痛めた。

「玉座に居られる主上(おかみ)は、あれほどの人にかしずかれながら、長い間、お一人であらせられたのだ。おいたわしい……。それに引き替え、余は何と幸せな事だろう。」

幕府に遣わされた身ではあるが、寄せられた信頼に応え、どこまでも真摯にお仕えしたいと改めて思う。
容保は会津守護職を引き受け、全身全霊を傾け帝と幕府の求めに精いっぱい応えようとしていた。





本日もお読みいただきありがとうございます。

新撰組は会津藩お預かりとなり、懸命に働きます。
誰よりも矜持を持ち、尽忠報国の意識を持っていました。
多摩生まれの百姓の一途さは、容保の心に響きました。
好きだなぁ……(〃゚∇゚〃)    此花咲耶


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