2ntブログ

終(つい)の花 26 

元々病身で身体の弱かった容保は、風邪をこじらせて臥せっていた。
見舞いと称し、寝所まで押し入るようにして入り込み、無理難題を持ちこんだ春嶽と一橋慶喜を前に、高熱で赤い目を潤ませて胸を押さえ苦悶していた。
容保の白皙の端整な顔は面やつれして青ざめ、額に掛かる一筋のみだれ髪が労しい。
対面した二人は歯の浮くほどの美辞麗句を並べ、容保をほめそやしながら、最後には家訓を持ち出して逃げ道を断ってゆく。

「あっ、殿っ!」
「……松平どの!一橋どの!どうか!……誰か、急ぎ医師を呼べ!」
「はは……肥後殿は良い家臣を持って果報者じゃ。」

会津藩、藩祖保科正之が遺した家訓に縛られて、会津藩は風前の灯火となった幕府のぐらついた屋台骨を必死に支えるしかなかった。
この難題を請ければ、会津藩がどれ程の辛酸を舐めるのか、容保自身にも容易に想像はついた。
だからこそ家臣を集めた軍議の席で、容保は家臣に頭を下げた。

「皆には苦労を掛けるが、わたしは不義に生きるよりも、義に死のうと思う。わたしと共に死んでくれぬか……」
「殿っ!」

会津藩は、こうしてついに京都守護職を拝命する。
部屋に入りきれなかった家臣たちは、容保の決心を聞き廊下で咽び泣いた。
義に死すとも、不義に生きず……と、王城を守る京都守護職を引き受けた時、容保は身を切られる思いで決めた。
家老達も、それではまるで薪を背負ったまま火中の栗を拾うようなものと、歯ぎしりしたが、養子として入った容保には、誰よりも会津松平の藩主らしくあらねばならないという理由が有った。

「殿っ!殿は会津をどうするおつもりか!」

国から出てきた西郷頼母は、必死に容保に食い下がったが、国許で蟄居謹慎するようその場で沙汰を受けた。

「もう決めた事じゃ。頼母、これ以上言うな。」
「殿!なれど!」
「諌言は受けぬ。そちは即刻国許に帰り、余がもう良いというまで謹慎しておれ。」
「殿っ!もう一度お考えくだされ!」

頼母は食い下がっていた。
彼にも家老としての強い矜持がある。

「くどいっ。どれほど言おうと、決心は揺るがぬ。」

容保がそれほどまでにして、敢えて険しい道を選んだ訳は、藩祖の遺した「家訓」第一条に記されている。

波乱の人生を歩んだ藩祖保科正之は、徳川二代将軍家忠とお静という女中の落とし胤であった。正之は正室の手前、実父との対面も生涯叶う事は無く、幼いころは生母と二人、市井の長屋に身を置き暗殺の脅威に晒されている。
三代将軍家光の実弟でありながら、置かれた境遇を嘆くことなく一家臣として懸命に尽くした保科正之は、彼を掬い上げた家光を慕い、どこまでも幕府に忠誠を尽くすようにと家訓を残した。

大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

(徳川将軍家については、一心に忠義に励むべきで、他の諸藩と同じ程度の忠義で満足していてはならない。
もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではない。家臣はそのような藩主に決して従ってはならない。)

「余は会津藩藩主でいる限り、この重い家訓から逃れることは出来ぬ……」

どれ程苦悩し模索しようとも、若い藩主に逃げ道はなかった。
苦水が胸を這いあがり、容保は家臣と共に嗚咽した。




きっと、こんな風じゃなかったのかなぁ……と思うのです。
(´・ω・`)「容保さま……」
切ないこの先、書いてて楽しい……困ったわ~(´▽`*)←

本日もお読みいただきありがとうございます。
拍手もポチもとても励みになっています。   此花咲耶


にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へ




関連記事

0 Comments

Leave a comment