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波濤を越えて 17 

昼間の熱を吸った、むっとする草いきれが、鼻腔に広がった。

「やめてくださいっ」
「もう何も知らない子供じゃないんだろう?相良、一度だけで良いから……」
「何を言ってるんです」
「相良……頼むから」
「嫌です。放してくださいっ」

二人はバタバタと揉みあっていた。
突然、覆いかぶさっていた柳瀨の体が軽くなり、視界から姿が消えた。
ふわりと浮遊した柳瀨が、どっと傍らに放り出されたのを、正樹はわけもわからず眺めていた。


「大丈夫ですか?」
「あ……はい。あの……?」

事態を呑み込めないでいる正樹の、顔を覗き込んだ大柄な男の金髪が、街灯の光を弾いた。

「彼は貴方の恋人ですか?」
「いえ。恋人ではありません。昔の……知合いです」

助け起こされながら事実を告げた正樹は、男の顔に気づいた。

「あなたは……美術館でお会いした……?」
「そうです。あなたが困っていたようだったので、つい夢中で彼を投げてしまいました」
「あ……っ。柳瀨さん」

はっと我に返った正樹は、倒れたまま呆然としている柳瀨に手を貸した。

「柳瀨さん、大丈夫ですか?」
「痛っ……まったく、君ときたらいつもいつも……良いところで邪魔が入る」
「怪我はありませんか?」
「腰を打っただけだ。すまない、また怖い目にあわせてしまった。うっかり同じ轍を踏むところだったよ。自業自得だな」

柳瀨は見守る男にも、すまなかったと声をかけた。

「我を忘れてしまった。君は何か武道を?」
「趣味で柔道を。黒帯です」

悪びれずに大男が答える。
柳瀨はため息をついた。

「俺は行くよ。父親に頭を下げる決心がやっとついた」
「そうですか。上手くいけばいいですね」
「相良が言うと、本当に心配しているような気がする」
「本気で心配してはいけませんか?昔の柳瀨さんは、冷たくて感情の欠落したサイボーグみたいな人でしたけど、人並みに弱いところもあるとわかって少し安心してるんですよ」
「この姿で現れて、安心したなんて言われたのは初めてだよ」
「そうですか?」

どこか不思議そうに、正樹は柳瀨を見つめた。

「柳瀨さん。僕をがっかりさせないでくださいね」
「君と話をしていると、まだ俺はやれるのかもしれないと、自惚れてしまいそうになる」
「がんばった人には、缶コーヒーくらいなら、おごってあげますから」

柳瀨はふっと目を細めた。

「なんで……相良は俺のものじゃないんだろうな……傍にいてくれたなら、きっと死に物狂いでもう一度頑張れるのに」

柔らかい微笑みを浮かべた柳瀨は、聞こえないように呟くと肩をすくめた。その眼には光るものがあった。

「逢えて良かった。また……と言ってもいいか?」
「ええ。また……」

風立ちぬ。
踵を返して立ち去る柳瀨と正樹が、再び会うことはなかった。
事業を立て直した柳瀨は、華やかな舞台でもう一度脚光を浴びることになる。

そして正樹は……




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