「一輪花・桔梗」
「380円かぁ。」
貯金箱を眺めて、呻っているのには理由がある。
大好きなお隣のおにいちゃんのお引越しが、昨日済んだとママたちが言っていた。
就職が決まって、独り立ちするのよと叔母さんが言ってた。
ぼくには何も言ってくれなかったおにいちゃん。
でも、詳しい住所も、叔母さんに聞いたから大丈夫。
隣町だから、自転車で行ける。
引越しのお祝いをしてあげたかったけど、ちょうど新しいゲーム機が発売されて買った後だった。
「う~・・・こんなことなら、ゲーム、買わなきゃ良かった~・・・。何で、黙って引っ越しちゃうんだよ・・・。」
しょんぼりと階段を下りていったら、ママがおやつよと声をかけてくれた。
「いらない・・・」
「あら、いらないの?シェブールの苺ショートなのに。」
「・・・いる。」
ワイルドストロベリーのお皿に乗った、白いケーキ。
でも、シェブールの苺ショートは普段480円もして、誰かのお誕生日くらいしか買わないのに・・・?
おにいちゃんも、前にぼくの誕生日に、このケーキだったら甘いの駄目だけど食べれるねって言って食べてくれた。
ママが、うふふと笑った。
「なんと、先着100名さまに創業5周年記念で100円だったの~。」
ぼくは、ポケットの380円を握りしめた。
だっしゅ。
残り3個に間に合って、ぼくは運よく2個買うことが出来た。
小さな箱に2個のケーキを入れて、ぼくはそうっと自転車でお兄ちゃんの部屋に向かう。
きっと買えないけど(予算的に)、お花屋さんを覗いてみた。
「好きなお花があるの?」
自転車のかごの前に乗ったケーキの箱に気が付いたみたいだった。
どの花も綺麗だけど、お兄ちゃんに似合うのは・・・あ、これ。
目が留まった花に、お店の人を見やると、にこっと笑ってくれた。
「綺麗でしょう。秋の花だよ。きりっとして繊細で、ぼくもこの花好きなんだ。」
「でも・・・180円しかないの。買えないです。」
「いいよ。あげたいの、大切な人なんだね。」
ぼくは黙って大きく頷いた。
きっとその時のぼくは、真っ赤なトマトみたいな顔だったと思う。
お花屋さんは、花言葉を教えてくれた。
「やさしい愛情」「かわらぬ愛」「やさしい温かさ」「温和」・・・花言葉って、結構当たってると思う。
たった一輪だけど、ぼくのありったけの気持を込めて、お兄ちゃんにお引越しおめでとうと伝えたかった。
マンションを見上げて、ちょっと迷っているとどんと人に押された。
「あっ!・・・」
持っていたケーキの箱と、お花を落としてしまった。
「・・・・。」
ケーキ、絶対、潰れた・・・
ぐしゃって音がしたもの・・・
一つしか付いていなかった花の首も、くたりと折れた・・・
「ひっ・・・く・・・」
あ~あ、泣かせちゃった・・・と、周囲にいた人たちが、思わず声を上げた。
落ちたケーキの箱の前で、こんなところで泣いては相手の人にも気の毒だと思ったけれど、ぼくのちっぽけな気持も一緒に潰れた気がして後から後から、涙は零れて箱の上に落ちた。
「里流(さとる)?」
頭上から、ぼくの聞きたかった声がした。
「今、ここでぶつかっちゃって。」
「泣かせちゃったんだ。知り合い?」
膝を抱えて泣きやまない、ぼくの頭上で会話が続いていた。
後で・・・と聞こえた。
「里流(さとる)。おいで。一緒にケーキ食べよう。」
「だって、潰れちゃった・・・」
箱の中を覗いてお兄ちゃんは優しく笑った。
「大丈夫。苺が転がっただけだよ。それに、ほら、お花にお水あげないと可哀想でしょ。」
「だって、もう・・・」
「ほら、ここ見て。つぼみついてるよ、ちっこいの。おいで。」
大人の男の人の、独りの部屋。
何だか特別な空間のような気がする。
「何もないね。」
「そうだね。越して来たばかりだから、少しずつ増やすよ。」
「どうして、お引越しのこと教えてくれなかったの。」
お兄ちゃんは、ちょっと困った顔をした。
「そうだね。里流(さとる)とちょっと離れた方が良いかなと思ったんだけど・・・」
「どうして?お仕事とかの邪魔だから?」
ぼくがいつも、くっついて離れないから困ってしまったんだろうか。
ぼくがお兄ちゃんのこと、大好きなのは迷惑だといわれたような気がして、酷く悲しくなった。
「帰る・・・ね。も、困らせない・・・から。」
「里流、君はぼくが好き?」
「う・・・ん、大好き。」
その言葉に嘘はなかった。
うんと小さなときから、大好きだった。
「里流といるとね、ぼくは優しいお兄ちゃんでいられなくなるんだよ。」
悲しい目をして、お兄ちゃんはため息をついた。
指で生クリームをすくうと、じっと視線を向けたまま一本ずつ指を舐めてゆく。
その仕草は、どこかいけないことをしているようで、長い指が濡れた唇に呑まれるのを、ぼくはぼうっと見とれてしまう・・・。
「里流は、生クリームでできているわけじゃないから、こんな風に食べちゃいけないだろ?」
「だから・・・ね。ここには、もう来ちゃいけないよ。」
ある日突然、引越しの話を聞かされてぼくがどんなに寂しかったか、お兄ちゃんは分かっていない。
ぼくは、お皿の上の潰れてしまった苺ショートを掴むと、自分の顔に塗りたくった。
「食べてよ!一緒に食べるんでしょ!」
呆然としていたお兄ちゃんが、そっとぼくに触れた。
綺麗な顔が傍に近づいて、耳をくすぐった。
「引越しのお祝いだから、二人で食べるんだったね。ここも・・・いいの?」
ほっぺたに付いた生クリームを舐め取った舌が、ぼくの唇を割って侵入してきた。
長い指が、ぼくの肌にしっとりと体温を伝えた。
「お祝いありがとう。里流。・・・もう、お兄ちゃんはなしだよ。」
ぼくは、もう全身が真っ赤な苺になって、丸ごと食べられてしまう・・・・
「お、お引越し・・・おめでとう。kikyouさ・・・ん。」
小さなつぼみの付いた、一輪花がグラスで震えた。
お引っ越し祝いを書かせていただこうと思ったのですが・・・・思ったのですが・・・、とんだ駄作で申し訳ない・・・言い訳から、入る情けない此花。
気持だけ受け取っていただければと思って、そうっとアップします。いっそ、気がつかないで下さい位の勢いで
「kikyouさま、ブログお引越しおめでとうございます。」 此花