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波濤を越えて 28 

美術館の中は、相変わらず閑散としていた。
人が来はじめるのは、もう少ししてからですと正樹が教えた。
昨日から楽しみにしていた日本工芸賞の作品を、フリッツは一つ一つ丁寧にゆっくり見て回った。

「わからないことがあったら質問してください。できる範囲で答えます」
「ありがとう。……これは何という焼き物?」
「それは砥部焼というんです。日常に使われる陶器が多いようです」

厚めの白磁に流麗な筆致が躍る。
呉須を使って描いた濃淡の紺の図案を、気に入ったようだ。
他にもシンプルな器に目を止め、じっくりと鑑賞していた。

「これは何という図案ですか?」
「千鳥です。これも日本の図案としては、ポピュラーなものです」

波の合間に浜千鳥が飛び、普通は青海波の上に散らすのですと、正樹は手帳に描いて説明した。

「波に小鳥の図案なんですね。とても可愛いです。この半円の重なったのが、波の表現?」
「ええ。こんな風に半円形を三重に重ね、波のように反復させて波を表すんです」
「グラデーションで変化させたり、色を変えてもいいね」

フリッツは手帳を広げて、思いつくままに何やら書きつけた。

「着物の柄や、包装紙。風呂敷や、手ぬぐいにも、このデザインは使われています。千鳥だけではなく、兎などの動物もよく使われています」
「波の間に兎が跳ねるのか……波の表現一つとっても、とても繊細です。色々な波の表情があって面白い……」

フリッツは、小さな陶磁器に描かれた無限の世界に感嘆していた。何枚も陶磁器の特徴をメモし、ふと思いついたように顔を上げた。

「ねぇ、正樹。一緒にドイツに行きませんか?」
「……ドイツ?フリッツと一緒に?」
「ええ。正樹に見せたいロマンチックな街道や、ドワーフの森がすぐそばにあります。グリムの童話は好き?」
「好きですよ。本当はとても残酷なグリムの話を、僕はとても好きです」
「わたしは長い休みをもらって、日本を旅してきたけれど、国に帰ったら正樹に見せたいところがたくさんあります」
「今はとてもかないそうにないけれど……いつか、一緒に行けたらいいでしょうね」

はぐらかす正樹に、フリッツは焦れた。

「わたしはロ-テンブルグで工房を営む叔父の手伝いをしています。陶芸マイスターとして、雑器などを手作りしていて、この温かみのある器のように、一つ一つ手作りして手描きで花模様を描きます」
「そう……だからフリッツは、この展示に興味があったんですね」

正樹は視線を展示品に向けたままだった。

「正樹。出会ったばかりで、こんなことを言うのは信用できない?わたしは真剣に君を誘っているのに、目も合わせないのは何故?」
「……そんな一時の思い付きで、簡単に誘わないでください。本気にしてしまいます」
「本気です」
「唐突すぎます……僕だって長い間掴もうとしてきた夢を簡単にはあきらめられない」
「正樹……君に夢をあきらめろなんて言っていない」
「この話は、また家に帰ってからにしましょう。そろそろ来館者が増えてきました。僕は仕事に戻らなければ」
「正樹」
「質問がなければ、話は終わりにしてください」

フリッツは展示室を出てゆき、その日は帰ってこなかった。




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