淡雪の如く 32
良太郎は当て付けるように、ことさら是道の目の前で大人げなく従者の詩音を大切に扱った。
是道は視線さえも寄越さなかった。
是道にぞんざいに扱われ、階段からもんどりうって転がり落ちた傷心の白鶴の話は、寮生の間にも知れ渡っていた。
「ほら、詩音。しっかり飯を食え。まずは、食力(くいりき)というからな。」
「沢庵を食うか?それとも野沢菜の方がいいか?」
自分でしますから、お構いなく……という白鶴の面倒は誰もが見たがり、周囲に人だかりは絶えなかった。
既に皆に一目置かれている良太郎と市太郎の二人が、如菩薩を罵倒したらしいと噂が広まり、詩音に対する良太郎の態度が拍車をかけた。
知らず、是道は構内でも孤立してゆく。
元々、話しかけるのにも勇気のいる凄絶な美貌だった。間に柔らかい物腰の詩音がいてこそ、何とか会話が成り立つと、皆思って居る。
ちらりと視線を泳がせただけで、その場の空気が変わった。
「まさに、触れなば落ちん風情だな。」
「一人でいるのは痛々しいが、華桜陰は皆平等だからな……。」
「余りの仕打ちに良太郎が切れたのか?」
「佐藤君は猪突猛進が身上だからな。」
*****
そんな声を余所に、しばらくするといつか詩音は是道の側に戻り、結局物言わぬままの冷たい主人の後を付いて歩いていた。
付かず離れず、一定の距離を空けて……。
一見、何事もなく元の鞘に戻ったように見える。
だが、どこか歪でどこか張り詰めたままで空気がぎこちなかった。そのうち、妙な噂が流れ始めた。
くだんの如菩薩が、真夜中になると構内を徘徊していると言う。
実際、華桜陰の寮生の中には門限を破る猛者もいて、校外で芸者と逢引に出かけたまま真夜中でないと帰ってこないものなどもいた。
世間の目は旧制高校生に甘く、半ば公然と学生たちは学業の合間に羽を伸ばした。
彼等の羽織る釣鐘型のマントは、夜陰に紛れるには好都合で目立たなかったが、是道の白い顔は夜目に目立つらしい。
門扉を超えた先で瑯(ろう)たけた顔を見て、幽霊かと思ったと数人が声を上げた。
「あの様子は、尋常では無かったね。俗にいう夢遊病というやつじゃないのか?」
「穏やかじゃないなぁ。それでは精神の病だ。」
「いやいや、ただ眠れなくて月を眺めていたと言う話だよ。話をしたものもあるらしい。」
「いや。月を見つめて思い詰めた目をしていたそうだ。月を眺めて泣くなぞとは、如菩薩は月世界人だったか。」
こうなると、元々幼い弟妹の面倒を進んでみてきた世話好きの良太郎には気が気ではない。
しばらく距離を置いていたものの、つい目線が主従を追っていた。
別段、変わった所は無いけれど……と、ふと流した視線が、是道の開襟シャツに止まった。真白いカラーは首の半ばまで高く、リボンを結ぶようになっている。
大久保是道の真っ白いシャツの両の袖口に、赤黒く変色が見える気がする……。
あの色は……。
「血……?」
ガタ……と長椅子が音をたてた。
「佐藤君?これまでの所で何かご質問ですか?」
階段式の教室の上段に、思わず立ち上がった良太郎にモンテスキュウ教授が声をかけた。
講義中だったのに気が付き、思わず顔に朱が走る。
「失礼しました、どうぞお続け下さい。」
元々、日に当たらない生活をしているだろう是道と詩音の顔は、健康そうな他の寮生の顔色とは違い、どこか透明感のある白さを持っていた。
だが、よくよく眺めてみると是道の顔色は病的なほど血の気も感じられない。以前よりもますます物憂げに見える。
緩慢な是道がどうにも気にかかって仕方の無くなった良太郎は、大久保是道の眼前にこれ以上はないと言う不遜な態度で腕を組み現れた。
「少し良いか?」
「……。」
「気に食わないのなら、返事はしなくていい。そのシャツの袖をまくって見せてくれないか?」
良太郎をちらと一瞥したきり、是道は存在を無視して素通りしようとした。
いつもお読みいただきありがとうございます。
寒くなりました。皆様、お風邪など召しませんように。 此花咲耶
お知らせ:HP携帯サイトできました。
是道は視線さえも寄越さなかった。
是道にぞんざいに扱われ、階段からもんどりうって転がり落ちた傷心の白鶴の話は、寮生の間にも知れ渡っていた。
「ほら、詩音。しっかり飯を食え。まずは、食力(くいりき)というからな。」
「沢庵を食うか?それとも野沢菜の方がいいか?」
自分でしますから、お構いなく……という白鶴の面倒は誰もが見たがり、周囲に人だかりは絶えなかった。
既に皆に一目置かれている良太郎と市太郎の二人が、如菩薩を罵倒したらしいと噂が広まり、詩音に対する良太郎の態度が拍車をかけた。
知らず、是道は構内でも孤立してゆく。
元々、話しかけるのにも勇気のいる凄絶な美貌だった。間に柔らかい物腰の詩音がいてこそ、何とか会話が成り立つと、皆思って居る。
ちらりと視線を泳がせただけで、その場の空気が変わった。
「まさに、触れなば落ちん風情だな。」
「一人でいるのは痛々しいが、華桜陰は皆平等だからな……。」
「余りの仕打ちに良太郎が切れたのか?」
「佐藤君は猪突猛進が身上だからな。」
*****
そんな声を余所に、しばらくするといつか詩音は是道の側に戻り、結局物言わぬままの冷たい主人の後を付いて歩いていた。
付かず離れず、一定の距離を空けて……。
一見、何事もなく元の鞘に戻ったように見える。
だが、どこか歪でどこか張り詰めたままで空気がぎこちなかった。そのうち、妙な噂が流れ始めた。
くだんの如菩薩が、真夜中になると構内を徘徊していると言う。
実際、華桜陰の寮生の中には門限を破る猛者もいて、校外で芸者と逢引に出かけたまま真夜中でないと帰ってこないものなどもいた。
世間の目は旧制高校生に甘く、半ば公然と学生たちは学業の合間に羽を伸ばした。
彼等の羽織る釣鐘型のマントは、夜陰に紛れるには好都合で目立たなかったが、是道の白い顔は夜目に目立つらしい。
門扉を超えた先で瑯(ろう)たけた顔を見て、幽霊かと思ったと数人が声を上げた。
「あの様子は、尋常では無かったね。俗にいう夢遊病というやつじゃないのか?」
「穏やかじゃないなぁ。それでは精神の病だ。」
「いやいや、ただ眠れなくて月を眺めていたと言う話だよ。話をしたものもあるらしい。」
「いや。月を見つめて思い詰めた目をしていたそうだ。月を眺めて泣くなぞとは、如菩薩は月世界人だったか。」
こうなると、元々幼い弟妹の面倒を進んでみてきた世話好きの良太郎には気が気ではない。
しばらく距離を置いていたものの、つい目線が主従を追っていた。
別段、変わった所は無いけれど……と、ふと流した視線が、是道の開襟シャツに止まった。真白いカラーは首の半ばまで高く、リボンを結ぶようになっている。
大久保是道の真っ白いシャツの両の袖口に、赤黒く変色が見える気がする……。
あの色は……。
「血……?」
ガタ……と長椅子が音をたてた。
「佐藤君?これまでの所で何かご質問ですか?」
階段式の教室の上段に、思わず立ち上がった良太郎にモンテスキュウ教授が声をかけた。
講義中だったのに気が付き、思わず顔に朱が走る。
「失礼しました、どうぞお続け下さい。」
元々、日に当たらない生活をしているだろう是道と詩音の顔は、健康そうな他の寮生の顔色とは違い、どこか透明感のある白さを持っていた。
だが、よくよく眺めてみると是道の顔色は病的なほど血の気も感じられない。以前よりもますます物憂げに見える。
緩慢な是道がどうにも気にかかって仕方の無くなった良太郎は、大久保是道の眼前にこれ以上はないと言う不遜な態度で腕を組み現れた。
「少し良いか?」
「……。」
「気に食わないのなら、返事はしなくていい。そのシャツの袖をまくって見せてくれないか?」
良太郎をちらと一瞥したきり、是道は存在を無視して素通りしようとした。
いつもお読みいただきありがとうございます。
寒くなりました。皆様、お風邪など召しませんように。 此花咲耶
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