淡雪の如く 36
いちばん最初は、紅い這子人形がきっかけだったという。
「這子人形?と言うと、あの赤子の厄落としに持たせるあれか?」
「はい。実母の菊さまが、若さまがお屋敷を抜け出して会いに行った折に、あまりに不憫でそっとお渡したというお人形です。」
「その人形が?」
「それは大久保の家で暮らす若さまには、たった一つのお慰めでした。知り合った幼い頃に、詩音にだけ見せてあげる。大切な宝物なのとおっしゃいました。雨に当たっても大丈夫なように、ブリキの缶にお大切にしまって、二人して植え込みに隠しました。庭師の父に頼んで、そこだけは刈り込まないでくれと残して貰いました。」
どこか懐かしむような目で、詩音は幼い是道の話をした。
「でも、行儀作法の不手際でひどい折檻を受けた後、いつもの植え込みでお人形を抱いて泣いているのを見つかって……子供の手に、お茶碗が大きすぎただけなのです……。」
良太郎の瞳が潤んだ。
「義母上に取り上げられたのだな?」
想像がついてしまった。
そのくらいのことは、大久保の義母はやってのけるのだろう。
人を人とも思わない、性格に大いに問題のある婦人のようだった。
「はい。由緒正しき大久保家の惣領が、女子のようにお人形を抱いて泣くなんてとお怒りになりました。もっとお心を強くして差し上げますとおっしゃって……奥さま付きの老女が、若さまを引きずって義兄上様の格子のあるお座敷に連れて行ったのです。」
格子のある座敷と言うのは、大抵は屋敷の奥深くに作られ、表に出せないものを閉じ込めておくための座敷牢のことだった。
普通の暮らしも叶わぬ息子の種を、ひいては自分の血統を残したかったというだけで、許婚の娘を乱暴させたのだと思うと、良太郎は気分が悪くなった。
それで、大久保はどうしたのだ?……と、口に仕掛けて、思わずその場で震える詩音を引き寄せた。
「大丈夫か?詩音。無理に話すことはない。」
さめざめと声に出さずに詩音が泣く。
余りに儚くて消え入りそうで、良太郎は困ってしまった。
「困ったな……詩音、ぼくは、不器用な性質でそんな風に泣かれるとどうしていいか分からない。」
「お、お許しください。泣くつもりはないのですが……どう……にも止まらなくなって……しまいました。きっと、佐藤さまに打ち明けて心の荷が軽くなったせいです……。」
涙は止まらず、腕を回した良太郎の袖口をぬらした。
とうとう、ひっくひっくと嗚咽も漏れ始め、良太郎は観念して胸深く詩音を抱いた。よしよしと赤子をあやすように背中を撫でた。
「泣くな、詩音。」
「共に背負ってやるから、話せ。」
「佐藤さま……。」
意を決して見上げたその顔は、白鶴と二つ名で呼ばれるだけあって清廉と美しかった。
ついと目許に溜まった涙を吸ってやると息をつめたが、やがて思い切ったように、話し始めた。
詩音にとっても、一人では抱えきれないほどの主の闇だった。
「幼い若さまは、義兄上さまのお座敷が怖かったのです。時々、感情が荒ぶると獣のように大声で叫んでおいででしたから……。でも。お大切なお人形を取り返すために、若さまは勇気を振り絞ってがんばったのです。若さまは、義兄上さまのお座敷前で手をつきました。」
良太郎の脳裏に初恋の「こみちちゃん」が、意を決して唇を噛みしめたのが浮かんだ。
*****
「ご……ごきげんよう、お義兄上。是道のお人形をお返し下さいませ。」
そう言って、きっとぺたりとお行儀よく手を突いて、願いを告げたに違いない。
「これ……みち……?」
「あい。それはわたしの母上からいただいた大切なお人形ですから、お兄さまに差し上げるわけには参りません。どうか是道にお返し下さい。お兄さま。」
勇気を振り絞ったが、余りの恐怖にふっと意識が飛びそうだった。
格子の向こうの義兄は、恐ろしいサンバラ髪に血走った紅い目をしていた。爪の手入れもせず長く伸びていた。
客間にある口の裂けた夜叉にも似ている気がする。
絵草子に出てくる酒呑童子にも似ていた。
「ここにこい、これ……みち。」
獣の臭いのする鬼が、是道の名を呼んだ。
ε=(ノ゚Д゚)ノ 詩音:「あっ!若さまが一大事です~~。」
お読みいただきありがとうございます。 此花咲耶
「這子人形?と言うと、あの赤子の厄落としに持たせるあれか?」
「はい。実母の菊さまが、若さまがお屋敷を抜け出して会いに行った折に、あまりに不憫でそっとお渡したというお人形です。」
「その人形が?」
「それは大久保の家で暮らす若さまには、たった一つのお慰めでした。知り合った幼い頃に、詩音にだけ見せてあげる。大切な宝物なのとおっしゃいました。雨に当たっても大丈夫なように、ブリキの缶にお大切にしまって、二人して植え込みに隠しました。庭師の父に頼んで、そこだけは刈り込まないでくれと残して貰いました。」
どこか懐かしむような目で、詩音は幼い是道の話をした。
「でも、行儀作法の不手際でひどい折檻を受けた後、いつもの植え込みでお人形を抱いて泣いているのを見つかって……子供の手に、お茶碗が大きすぎただけなのです……。」
良太郎の瞳が潤んだ。
「義母上に取り上げられたのだな?」
想像がついてしまった。
そのくらいのことは、大久保の義母はやってのけるのだろう。
人を人とも思わない、性格に大いに問題のある婦人のようだった。
「はい。由緒正しき大久保家の惣領が、女子のようにお人形を抱いて泣くなんてとお怒りになりました。もっとお心を強くして差し上げますとおっしゃって……奥さま付きの老女が、若さまを引きずって義兄上様の格子のあるお座敷に連れて行ったのです。」
格子のある座敷と言うのは、大抵は屋敷の奥深くに作られ、表に出せないものを閉じ込めておくための座敷牢のことだった。
普通の暮らしも叶わぬ息子の種を、ひいては自分の血統を残したかったというだけで、許婚の娘を乱暴させたのだと思うと、良太郎は気分が悪くなった。
それで、大久保はどうしたのだ?……と、口に仕掛けて、思わずその場で震える詩音を引き寄せた。
「大丈夫か?詩音。無理に話すことはない。」
さめざめと声に出さずに詩音が泣く。
余りに儚くて消え入りそうで、良太郎は困ってしまった。
「困ったな……詩音、ぼくは、不器用な性質でそんな風に泣かれるとどうしていいか分からない。」
「お、お許しください。泣くつもりはないのですが……どう……にも止まらなくなって……しまいました。きっと、佐藤さまに打ち明けて心の荷が軽くなったせいです……。」
涙は止まらず、腕を回した良太郎の袖口をぬらした。
とうとう、ひっくひっくと嗚咽も漏れ始め、良太郎は観念して胸深く詩音を抱いた。よしよしと赤子をあやすように背中を撫でた。
「泣くな、詩音。」
「共に背負ってやるから、話せ。」
「佐藤さま……。」
意を決して見上げたその顔は、白鶴と二つ名で呼ばれるだけあって清廉と美しかった。
ついと目許に溜まった涙を吸ってやると息をつめたが、やがて思い切ったように、話し始めた。
詩音にとっても、一人では抱えきれないほどの主の闇だった。
「幼い若さまは、義兄上さまのお座敷が怖かったのです。時々、感情が荒ぶると獣のように大声で叫んでおいででしたから……。でも。お大切なお人形を取り返すために、若さまは勇気を振り絞ってがんばったのです。若さまは、義兄上さまのお座敷前で手をつきました。」
良太郎の脳裏に初恋の「こみちちゃん」が、意を決して唇を噛みしめたのが浮かんだ。
*****
「ご……ごきげんよう、お義兄上。是道のお人形をお返し下さいませ。」
そう言って、きっとぺたりとお行儀よく手を突いて、願いを告げたに違いない。
「これ……みち……?」
「あい。それはわたしの母上からいただいた大切なお人形ですから、お兄さまに差し上げるわけには参りません。どうか是道にお返し下さい。お兄さま。」
勇気を振り絞ったが、余りの恐怖にふっと意識が飛びそうだった。
格子の向こうの義兄は、恐ろしいサンバラ髪に血走った紅い目をしていた。爪の手入れもせず長く伸びていた。
客間にある口の裂けた夜叉にも似ている気がする。
絵草子に出てくる酒呑童子にも似ていた。
「ここにこい、これ……みち。」
獣の臭いのする鬼が、是道の名を呼んだ。
ε=(ノ゚Д゚)ノ 詩音:「あっ!若さまが一大事です~~。」
お読みいただきありがとうございます。 此花咲耶
- 関連記事
-
- 淡雪の如く 41 【最終話】 (2011/12/14)
- 淡雪の如く 40 (2011/12/13)
- 淡雪の如く 39 (2011/12/12)
- 淡雪の如く 38 (2011/12/11)
- 淡雪の如く 37 (2011/12/10)
- 淡雪の如く 36 (2011/12/09)
- 淡雪の如く 35 (2011/12/08)
- 淡雪の如く 34 (2011/12/07)
- 淡雪の如く 33 (2011/12/06)
- 淡雪の如く 32 (2011/12/05)
- 淡雪の如く 31 (2011/12/04)
- 淡雪の如く 30 (2011/12/03)
- 淡雪の如く 29 (2011/12/02)
- 淡雪の如く 28 (2011/12/01)
- 淡雪の如く 27 (2011/11/30)