青い小さな人魚 (漆喰の王国) 5
誇らしげに着飾った側女がスルタンに告げたとき、マハンメド王は、やっと終えた役目に心底ほっと安堵した。後は、皇子が生まれればそのまま太守に、姫ならば婿を取らせばよかった。
「おめでとうございます。スルタン。これで、この国の行方は安泰です。」
「そなたが正式に妃に決まったな。身体を労わり丈夫な赤子を生んでくれ。この国の安穏のために。わたしは気分がすぐれぬゆえ、これからは後見人として宰相に権限を委譲する。豊かな漆喰の王国の全ては、そなたと生まれてくる赤子のものだ。」
「ありがとう存じます。」
束の間の愛人に形ばかりの抱擁を贈り、愛情の代わりに国と全ての私財を与えて、スルタンは愛しい人魚の元へと急いだ。
「さあ…。これでもう、愁いは無くなったぞ。」
むせ返る花の香油は、海の底に住んでいた人魚にはなじめず、スルタンに移った香にさえ苦しそうにしていたのを思い出す。海の底に咲く花には、香りなど無かったから、無理はない。
幾重にも重ねられた厚いカーテンの向うで、人魚は一人寂しくスルタンを待っていた。
*****
海の見えない小部屋の奥で訪れる人もなく、すっかり汚れてしまった水で身体を湿らせながら、人魚は開かない扉を見つめていた。
スルタンが去ってから、給仕以外、誰も訪れるものもないまま長い日々が過ぎていた。
「スルタン……。」
髪を梳いていた指が止まった。
……遠くから待ちかねた靴音が響く。
漆喰の回廊を、スルタン・マハンメドが吉報を持って、少年のように駆けてきた。
「待たせた!」
「寂しい想いをさせて、すまなかった。やっとすべてが終わった。」
「ああ……スルタン。お待ちする時間が長いのも楽しみの一つでした。やっとお会いできました。どうぞ、お顔を見せてください。」
「わたしの青い小さな人魚よ。これからは、そなたとずっと共に過ごせる。さあ、共にそなたの国へ行こう。大国を統べる太守からただの男になったわたしに、お前の本当の名前を教えてくれないか?それとも、まだ早いか?」
短い逢瀬の間、スルタンの腕の中で小さな青い人魚は幸せだった。輝く髪の間から青い瞳でじっと愛する人を見つめた。
「スルタン……マハンメド。わたしの名前は「6番目の王子」というのです。父王はそうお呼びになります。」
「愛おしい「6番目の王子」よ、わたしの大切な帯び飾りを髪に結んでやろう。」
髪を撫でながら一つの名前をスルタンは思い付き、口にした。
「そうだ、このヤークートの瞳だ……お前の名前はこの帯飾りに付いた深い海の色を写したヤークート(サファイア)がいい。わたしは、その名で呼ぼう。」
「ヤークート……?わたしに陸の宝石の名前を下さるのですか。うれしい。」
名まえ一つで、満ち足りて頬を染める人魚を心底愛おしく思っていた。
髪を撫でる手に両手を添えて、頬を染める人魚にスルタンは決心を告げた。
「これからは、二人だけの時にはヤークートと呼ぼう。月が満ちて後宮の側女に子供が生まれたら、わたしをお前の珊瑚の王国に連れて行ってくれ。もう、この国に何の未練もない。妃が亡くなったとき、東の大国のスルタン、マハンメドも共に亡くなったのだ。」
人魚の見開いた瞳から、幸せの涙がころ…と転がり落ちて、褥の上で虹色真珠に変わった。連れてこられたとき、どれほど哀しみに打ちひしがれても、流した涙は虹色真珠にはならなかった不思議にスルタンは驚いた。
「人魚の零した涙が真珠になると言う伝説は、本当だったのか……。」
問うスルタンに、いくつもの真珠の涙をぽろぽろとこぼしながら、ヤークートは答えた。
「わたし達、海神の王子の虹色真珠は、愛する人と永遠を誓ったときに零れるのです。悲しみの涙ではありません。マハンメド……わたしの秘密の場所の鱗を噛み砕いて飲んでください……。常世の果てまで海神の眷属になって、海の底で暮らしてくれるなら、わたしはずっとあなたのものです。父王の許しを頂いて、海の者になってください。」
「ヤークート、そなたにわたしの全てを捧げる。共に……海の宮殿へ参ろう。」
スルタンは誓いの代わりに、深く甘い口づけを贈ると下肢に手を伸ばし、秘密の場所の桜色の鱗を一枚はぎ取ると、濃い葡萄酒と共に飮み干した。
「ぐっ……!」
「スルタンッ!」
飮んだ鱗が胃の腑で水を求めて暴れ、スルタンは水槽の水を半分余りも飲み干して、やっと息を吐いた。しばらく苦悶したのち全身を鏡に映したスルタンが、ふっと笑顔を浮かべて喉の脇に、並んだ魚の鰓孔を見つめて触れた。
「そうか……。こうして、わたしはヤークートと同じ海の者になるのだな。」
「はい。魚の尾を持ち、海の王国で共に暮らすのです。そして、父王海神の鱗を貰って完全な不老不死となるのです。」
「尾が生えてなくとも、広い海原の果てへも行けるかな。」
「はい。やがて生えてくるでしょう。スルタン……まだ見ぬ海の果てには、尾を持つ魚のようでいながら、乳で育つ山のように大きな魚もいると聞いたことが有ります。」
「そうか。楽しみにしておこう。」
抱きしめ合う二人には、陸上での未練は既に無く、時が満ちて海で暮らせるようになったら共に行こうと決心を確かめ合った。
だが、固くつなぎあった二人の指は、残酷な運命に引き離されてゆく。
抱きあう二人の影を、忌々しげに呪詛の言葉を吐きながら、男は踏みつけていた。
「おのれ、小魚め……。」
男は、常にスルタンの傍らで執務を行う宰相だった。
Σ( ̄口 ̄*) 一波乱の予感でっす……。
(´・ω・`) 「スルタン……今は幸せだけど……。」
(`・ω・´) 「大丈夫だ、ヤークート!」
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