青い小さな人魚 (漆喰の王国) 7
だが、宰相は一つだけ計算を誤った。
マハンメドは、思いがけず心根の優しい男だった。正妃がかどわかされて敵国の捕虜となって以来、雄々しい覇気は消え、愛する者を心配し別れを嘆き悲しむ、ただのつまらぬ国主になってしまった。
星明りに妻の姿絵(タペストリー)を眺め、月明りの湾の地平線に妃を乗せた船影が浮かびはしないかと、何度も小姓を走らせた。
共に世界を手中に収める宰相の大きな野望は、ただの絵物語になってしまった。落胆のあまり、スルタンを見限って宰相は、ついに自分が覇王となる夢を見る。
宰相は、手初めに自分の手のついた愛妾を、正妃の後釜としてスルタンの傍らに送り込み侍らせた。一度裏切ってしまえば、背信もむしろ心地よい気がする。子供のできた日を逆算して考えれば、おそらく女の腹に宿ったのは自分の子種だろうと思う。
卑しく口角をあげて、宰相はわが世の春を想像してほくそ笑んだ。小魚に夢中のスルタンにすっかり失望した宰相は、今や獅子身中の虫(裏切り者)となっている。
どこまでもスルタンを愛すればこそ、失望の反動は大きかった。
スルタンが腑抜けになった今、野望は叶ってゆくが、宰相はどうしても自分の大望を打ち砕いた青い小さな人魚が目障りでならなかった。
あの小さな青い人魚さえいなければ、いつかのように自分の胸でひとしきり泣いた後、スルタンは、再び悲しみから立ち上がるはずだった。
自分が慈しんで育て、幼いスルタンをここまでにしてきたのだという大きな自負があった。青い小魚に夢中になるスルタンを愛していたが、自分を見限ったマハンメドを許せないと思った。
自立を阻む激しい嫉妬と憎悪が、妄執にも似た狂気へと変わるのに時間はかからなかった。
愛と憎しみがせめぎ合い、宰相を見えない炎で焼いた。
*****
締め切ったスルタンの私室で、人魚とスルタンの間に一体何が起こったのか知る者はない。
いつも人払いされて、人魚の喘ぎもスルタンの睦言も漏れることはなかった。
ただ、部屋の片隅に見つけた、伝説の虹色真珠が、宰相のわずかに残った理性を吹き飛ばした。物知りな宰相は、虹色真珠にまつわる伝承を知っていた。
「スルタンは……まさか……あの小魚と本気で契るおつもりなのか……?」
部屋に忍び込み様子をうかがった宰相は、スルタンと人魚の烈しく睦みあう様子を、厚い織物でできた間仕切り越しに聞いてしまった。
どうやって自室に帰ったかさえ覚えていないほど、宰相は打ちのめされていた。
スルタンが新しい正妃の側に立ち、王子の誕生をねぎらっている時、宰相は呼び出した奴隷商人と話を付けた。後宮の女たちにも、人魚を連れ去るまで、スルタンに侍り時間を稼ぐように言ってあった。
「お前がわたしの全ての計画を、全て台無しにした。恐ろしい魔魚め!」
宰相はスルタンの自室に忍び込み、青い小さな人魚の水槽の前に立っていた。
幼い頃から大切に育ててきた掌中の珠を、小魚が海へと攫って行ってしまう。憎しみで焼けついた瞳を光らせて、宰相は怯えた人魚の鱗の生えた足を掴んだ。そのまま抗うのを引きずり出し床へと叩きつけた。
「あーーっ!」
「国を滅ぼす魔魚め!スルタン・マハンメドを、海の底になど連れて行かせないぞ。」
「宰相さま……?マハンメドは、あなたがここに居るのを知っているのですか?」
「いずれ知ることになるだろうよ。お前のなますに刻まれた亡骸を見つけてな……。」
「え……?……あっ……!」
弧を描いたシャムシール(刀)を抜くと、宰相は人魚の胸元に突きつけた。滑らかな上半身と腕は人と変わらない姿に見えた。切っ先に力を入れると難なく薄い肌をぷつと切り裂いて、一条の血が流れた。
「やぁ……っ!」
「なるほど……流れる血は赤いのか……。人並みに痛みも感じると見えるな。」
何も言わずに見つめる青い瞳を眺めていると、スルタンが溺れる意味が分かる気がする。人魚は手を伸ばし、宰相のシャムシールを持つ手を握った。
「宰相さま、お気を静めてください。スルタンはただ、お寂しかったのです。戯れに海の話をしてゆくうちに、わたしと共に生きる道を選んでくださいました。誰にも迷惑をかけぬよう……国に憂いの無いよう、全てを片付けてから去るおつもりです。」
必死に語る人魚の言葉を、勝者の戯言だと宰相は思った。
「お前と共に……生きるだと……?太守が海の王になるというのか?」
スルタンは全てを捨てるおつもりだ。……本気でわたしを捨てて、国を捨てて、この小魚と海の底へ行くつもりなのだ。脳内に、人魚の言葉が木霊した。
「そのようなことを、させるものか!小魚め!思い知るがいい!」
宰相の持った刀が人魚の手と共にゆるゆると持ち上がり、やがて真っ直ぐに人魚の脚に突き立てられた。
可哀想なヤークート…(´・ω・`)←書いといて。
でも宰相にもちょっと同情……。
本日もお読みいただきありがとうございます。 此花咲耶
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