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終(つい)の花 東京編 26 

直正の仕えた元会津藩家老佐川官兵衛は、鬼人といわれるほどの働きをし、明治政府の勝利に貢献した。
だが、その姿は相馬直正と共に、帝都での戦勝の行列に並ぶ事は無かった。

今も南阿蘇の地には、佐川に対する感謝の碑が十数か所も立っている。
地元の村人がどれだけ好意的だったか、その数が示している。

鬼佐川は、そのあだ名を本名と勘違いした村人から「鬼さま」と呼ばれ、慕われていた。
阿蘇につくと配下の巡査たちを呼び、決して地元の者に略奪行為を働かないようにと、十分な金を渡したうえで、きつく言い渡した。会津出身者も多い。

「良いか!我らはれっきとした官軍である。決して土地の者に不利益になるようなことはするな。」
「お言葉を返すようですが、佐川さま。現地調達は当然なのでは?」
「民を泣かせて、何の官軍ぞ。各々天に恥じぬ行いを心掛けよ。」
「はっ!」

いつの時代も戦禍を被るのは弱者であると、佐川は誰よりも知っていた。
佐川には忘れえぬ過去がある。
金目の物を強奪したのち火をつけられた家の前で、官軍に凌辱を受けた半裸の少女は呆然と、佐川を見つめていた。
燃える家の中には、斬り殺された両親と幼い弟がいると、近隣の老人が教えた。声を失った娘は、あれからどうなっただろうか。
官軍の侵攻を受けた時、そんな話は、会津のどこにでもあった。誰も救えない苛立ちが激しい飢えとなり、佐川を獣のように突き動かしていた。
落城が決まっても、藩主の命が届くまで、必死で血刀を振り続けた。
身を粉にして全藩あげて朝廷に尽くした挙句、大義を踏みにじられる理不尽に、侍は咆哮した。

会津の人々が敗戦以降、物心ともに官軍に虐げられてきたのを見てきた佐川は、官軍と呼ばれるようになったとき、一番に自らと配下を律した。
会津が逆賊ではないと、示せる機会だと思った。
警視庁に一等大警部として奉職を決めた時も、大藩の家老としては余りに軽んじられているのではないかと周囲は声を上げたが、配下の者に不服を漏らすようなことはなかった。佐川は月給50円の中から、元藩主に送金さえしている。
会津随一の抜刀術の手練れが、どれほど賊軍(薩摩軍)との戦に燃えていたか、はやる気持ちを抑えながら戦に臨んだか、思いは遺された辞世からも感じることができる。

『君が為 都の空を討ち出でて 阿蘇山ろくに 身は露となる』

「まだ、起きていらっしゃいますか。佐川さま。」

深夜、はやる心を抑えきれなかった直正は、明かりのついた佐川の部屋を訪ねている。

「おう、直正か。」
「いよいよ戦ですね。何やら心が逸って寝付けませぬ。」
「そうか。俺は作戦を考えていたんだ。これまで再三、相手の軍がまとまるまでに打って出ろと進言してきたが、まだ早いと参謀に取り上げてもらえなかったからな。新政府の禄を食む身になっては従うのも仕方がないが、官軍としてできる限り、会津の意地と面目を見せてやろうと思っている。」
「はい。わたしもその為にここまで来た気がします。眠れないのなら、御一献いかがですか?」
「直正。会津での俺の失態を知っているだろう?あれから俺は出陣前に酒は飲まん。」
「そうでしたか。」

佐川は以前、酒で失敗したことがある。藩主から名刀を授けられた席で、酒を勧められた佐川は余りの嬉しさに呑みすぎで酩酊し、夜討ちに寝過ごした。
豪放磊落な男のエピソードだが、佐川は自分を責めた。その後の活躍は目覚ましく、落城後も、容保が止めるまで一人前線で戦い続けていた。
血まみれの血刀を振りかざす阿修羅のごとき姿に、敵味方から「鬼」と言われた所以だった。




本日もお読みいただきありがとうございます。
佐川官兵衛に関しては、その昔、此花は少し怖くて苦手でした。
大酒のみで血刀を振りかざし、敵にも味方にも血を浴びた阿修羅のように見えたところから、ついたあだ名が「鬼佐川」「鬼官兵衛」というのです。
儚げな少年や、綺麗なお殿様が好きな此花にとっては、余り興味を持てない人物でした。
でも調べてみると勇猛果敢でいながら、素直で、子供にも優しく、どこまでも生真面目で律義な武士の姿が見えてきます。
不幸な最期でしたが、これもまた……らしいと思えたのです。   此花咲耶

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