終(つい)の花 東京編 28 【最終話】
まどろんでいた一衛は、下から呼びかける子供の声に気付いた。
直正が九州に出立して以来、気の利くお染が時々差し入れをもって島原屋に顔を出す。
食欲はなく、会うことも許されなかったが、気持ちがうれしかった。
独りで横になっていると、いいことはあまり考えない。不安ばかりが胸に迫ってくる。
直正が戦で倒れ、一人残されたらと思うと涙が溢れ胸が痛くなるばかりだった。
「かずえさま~、かずえさま~。来ましたよ~。」
「一太郎ちゃん……」
窓枠に取り付けられた紐の先で、ちりんと鈴が鳴る。
出立前に、直正が人を呼ぶときにはこれを鳴らすんだよと、取り付けたものだ。
食事だけは差し入れてくれたから、必要はなかった。発作の時には波が収まるまで、辛抱強く一衛は我が身を抱いて耐えた。
いつしか長い紐は、風で窓の外に垂らされて揺れていた。
小さな子供には神社の鈴のようで面白いらしく、一太郎は来るたびに鈴の緒を引っ張って鳴らし一衛を呼んだ。
「そうだ……あれを……。」
枕もとの小箱に手を伸ばし、直正の作ってくれた竹とんぼを取り出した。
ほんの少し動いても、ままならぬ体は一衛を悲しくさせる。
楼閣の一室で朽ち果てるのは覚悟していたが、せめて直正がここにいればと思う。
休み休み、何とか這って窓枠の傍まで来た一衛は、咳と共に昇ってくる吐き気を抑え、窓の外に玩具を落とした。
「かずえさま~!きゃあっ!」
風に乗った竹とんぼは弧を描いてふわりと舞い上がり、高い空に吸い込まれるように飛んでゆく。
「わ~いっ!母さま。ほら、あんなに高く!」
一太郎は声を上げて行方を追った。
*****
ひきつるような咳に襲われていた。
褥が深紅に染まるほどの多量の喀血が、受け止めきれずに白い肌に散っていた。
血の海に倒れている一衛は死期を悟り、何気なくふと笑った。
血痰が気道に詰まり、もう呼吸はできなかった。
息のできない苦しさに、知らずに敷布を掴む。
「直さま……とうとう……お別れ……です。一衛は、もう……お終い……みたいです……」
目を閉じる前、一衛は空に伸ばした血染めの細い指に、恋しい直正の指がふわりと絡んだのを見た。
『 さあ、いこうか 』
『 直さま 』
『 遅くなってしまった 辛くはなかったか 』
『 あい 』
恋しい人の手に、一衛は頬を寄せた。
「……直……さ……」
耳朶にささやく直正の言葉が、共に逝こうと一衛の耳にこだまする。
手を取り合い、互いに嬉しげに微笑むと、もう離れぬと直正が告げた。
それは神仏が今わの際に見せた、優しい幻覚だったのかもしれない。
『 わたしは大地を渡る風になって どこまでも一衛の側にいる だから もう何があっても泣くことはない わたしはとこしえに一衛の傍にいるのだから 』
『 ああ うれし 』
*****
警視庁から届いた直正の訃報を知らせようと、一衛の部屋を訪ねた日向は絶句した。
大量の血を吐き、苦しんだはずの一衛は、驚くほど安らかな顔をしている。
血の海の中で、一衛はこと切れていた。
「とうとう、お独りで散ってしまわれましたか。相馬さまがお迎えにいらしたのですね。……綺麗なお顔ですよ、一衛さま……」
あれほどの事をした自分を信じ、一衛を預けて直正は遠国の土になった。
おそらく帰れぬだろうから後は頼むと、直正の残した文には記されており、有り金すべてを託してあった。
呼ばれて背後から部屋をのぞいたやり手婆が、その場に悲鳴を上げて腰を抜かした。
「静かにおし。弔いを出すから、おまえは寺に知らせておいで。」
「だ、旦那さま。病気の遊女は皆、寺の中に放り込むのではないのですか?もったいない……」
「この方には先に弔いの金をもらっている。わたしもそこまで欲深ではないよ。ああ、そうだ。ついでに化粧師を呼んでおくれ。せめてもの餞だ。」
へぇ、と不満げな返事をして、老女は寺へと走った。
化粧師の手によって、そげた頬に含み綿を入れ、青ざめた顔に薄く死に化粧を施された一衛は、在りし日のまま秀麗に美しかった。
化粧師は驚いて、日向を振り返った。
「……島原屋さん、ご覧なさいまし。この仏さんの美しいこと。これで、綿帽子でも被せてやったら、まるで花嫁御料のようじゃありませんか。」
「兄さん。そんな戯言はお気の毒です。このかたは、生まれついてのお武家さまですよ。とうとう、散ってしまわれましたが……やっと、楽になれましたね、一衛さま。」
日向は静かに仰臥した一衛に近づくと、喉を突く嗚咽をこらえながら心の内で詫びた。
出会ったときに見逃せば、違う人生があっただろうか。
秋。
古里は紅葉が燃えていた。
本日もお読みいただきありがとうございます。(〃゚∇゚〃)
やっと最終話です。
(。´・ω`)ノ(つд・`。)・゚「わかってたけどバドエンだった~」「まあまあ。」
あとがきを上げたいと思います。 此花咲耶
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