愛し君の頭上に花降る 2
祥一朗は諦めきれなかった。
「お父さまに言って、軍部に手を回してもらおうか?医専を卒業したばかりで、ぼくも君も医師としてはまだまだ未熟だ。もっと学ぶことはある」
「望月君の父上が、軍部に顔が利くというのなら、そういうことは君の時にこそお願いすべきだ。ぼくは目が悪いから、乙種合格すら貰えなかったけれど、軍医になれば軍隊では少尉殿だ。二等兵ではないから、毎日殴られるようなことはないだろう」
「君はそれでいいのか?大きな声では言えないが、南方に送られたらお終いだと、父上の所に来る軍人が言っていたのを聞いたことがある……」
「そういうご時世なのだから仕方がないよ。ね、この戦争が終ったら、いつか大いに飲もう。君の事は忘れないよ。君と知り合えて毎日楽しかった」
祥一朗は目を瞠った。
自分の事をそんな風に言ったものは、これまで一人もいなかった。
「妙なことを言う……ぼくは友人のふりをする奴らが裏側で、虎の威を借る狐だと言っているのを知っている」
「……そう?君の本質はそうではないと思うけどなぁ。君の父上が子爵なのは君が望んだことではないだろう?父上が君に湯水のごとく金を使うのだって、そうしたいからに他ならない。どんな親だって子供は可愛いものだ。現にぼくの父親だって、米屋のくせに、少しでも兵隊に行くのが遅くなるよう無理をして医専に入れたんだ。誰も出自を選ぶことなどできないよ。畏れ多いかもしれないけれど天子様にだって、それなりの悩み事はあると思う」
「ぼくは君が傍に居るのは、子爵家の令息のご友人と呼ばれたいからだと思っていた。これまで、本気でぼくと友人になりたいと言ったものなどなかったから」
「そうなのか?ぼくの方はずっと友人だと思っていたよ。親の事をとやかく言う君は、本当は親の期待に応えたかっただけなんだろう?違うかい?これまで君の選んだ道は、たまたま君には向いていなかっただけだ。いつかきっと、君に合った道が見つかる。思い通りにならなくて癇癪を起こす君は、ぼくの下の弟に似ていて、いつも可愛かった」
「……は?」
驚く祥一朗に、初恋の相手は笑いかけた。
「弟は5歳なんだ。あの子が尋常小学校に入学する頃には、戦争は終わっているかな。もしかすると、ぼくは英霊となって靖国にいるかもしれない。そうしたら、君は会いに来てくれるかい……?」
「……ぁああ……っ」
ふいに喉元から嗚咽がこみ上げて、祥一朗はたまらず顔を覆った。
この優しい彼が、自分の元からいなくなる……
涙の止まらなくなった祥一朗の肩を抱いていた相手は、やがて頬に顔を寄せると、小さな声で囁く様に告げた。
「さようなら。君は生きて」
触れた唇が余りにも冷たく、胸の潰れそうな思いで、祥一朗がやっと顔を上げた時、彼は既にそこにいなかった。
もう手を伸ばすことも、触れることもかなわない。
ただ一人、自分をわかってくれた友人。
締め付けられるような苦しい胸の思いに、自分は彼を失いたくなかったのだとやっと気づいた。
初恋相手が上野の駅から旅立つ日を調べ、祥一朗はこっそりと駅のホームから見送った。
ゆっくりと動き出した列車に向かって、多くの人が万歳三唱を叫び、七生報国の白襷をかけた初恋の彼は敬礼を返した。
一瞬、視線が絡んだような気がしたが、あふれる涙で姿はもう見えなかった。
汽車は白煙を上げて遠ざかってゆく。
「さようなら。君は生きて」
生きて帰らぬ覚悟の、別れの言葉だった。
「君がいないのに、ぼく一人……生きていても仕方がないじゃないか……君以外に誰がぼくを理解するんだ……」
告げられなかった劣情を、妄想の中で組み敷いた初恋相手にぶつけた。
掌に零れた白い精が、粘りをもってぽたりと床に落ちるのさえ、悲しかった。
ただ一人の理解者を失って、祥一朗は孤独だった。
火 木 土曜日更新の予定です。
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