露草の記 (壱) 29
すおう
はこべら
ほとけのざ
やまぶき
つめくさ
ははこぐさ
実のない山吹 七重 八重
蘇芳 血の色 わたしと逃げよ……
いつか夢の中で聞いた「草」の歌を、子供を寝かしつけるように、秀幸は小さく枕辺で歌った。何故か耳に残る、子守唄のような優しい旋律だった。
於義丸と呼んでいた少年は、実は儚い野の花の名を持つ、寄る辺の無い寂しい伊賀の里の出身だった。
於義丸がこのような歌を歌っていたのですと、秀幸が口ずさむと、歌に出てくる草の名前は、おそらく於義丸の仲間の名前だろうと、叔父、兼良が教えてくれた。
忍びは、仕事の度にいくつもの名と顔を持つと言う。
すおうも、はこべらも、仏になった。
やまぶき、つめくさは、母子であった。
「実」のない山吹に「身」をかけて、多くの仲間が七重八重に折り重なって、みんな死んでしまって悲しいと泣く歌……。
亡くなってしまった仲間を忘れないで恋う、忍びの里の悲しい伝承歌だった。
「露丸」という、姿に似合いの美しい名の草は、蘇芳のような血の色に染まり、命を懸けて秀幸を守った。
*****
「おギギ……、早う目を覚まさぬか。もう二つ目の夜が明けるぞ。」
じっと手を握り、気がつくのを待っていた秀幸は、於義丸の首の辺りに、ふと紅い紐が覗くのを見つけた。
「なんじゃ……?」
そっと引き上げると、それは小さな守り袋だった。
生まれた折りに、両親が父と母と子供の名を入れて持たせたものだろう。そっと袋の口を開けて、守り袋の中を確かめた。
ちち はやて
はは かげろう
こ つゆ
女文字で書かれてあったのを見ると、母の手によるものかもしれない。
「おギギの本当の名は、「つゆ」と言うのじゃな。似合いの名じゃ……。」
秀幸は一緒に入っていた小さく折り畳まれた、もう一枚の紙を広げた。
「これは……。」
秀幸の指先が震えた……。
それは、手習いをする於義丸が、上手く書けたと初めて褒めてもらった半紙の上に、秀幸が意地悪く重ねて朱で魚の絵を描いたものだった。
「おギギ。こういうものには、落款が要るのじゃ。」
「手本にせよ。」
そんな意地悪な言葉が、脳裏に思い出された。
「おギギ……。」
そんなものに心を寄せて、後生大事に守り袋に入れて戦場に出たのか……。涙をこらえたら、鼻の奥がつんと痛んだ。
「わたしには、おギギが命をかける価値などない……。」
重傷を負い、忙しなく浅い息をつく於義丸を、冷たく踏みつけにして来たこれまでの自分の非道を責めた。
秀幸は人払いし、固く目を閉じる於義丸の側で、じっと気が付くのを待っていた。
生まれ変った於義丸が、初めて目を開けたとき、見るものが自分でなければと思った。実に応えるために、自分も共に生まれ変わろうと決意した。
眉根がひそめられ、睫毛がふるっ……と動いた気がする。
「おギギっ!?」
しばしばと睫毛が震え、やがてゆっくりと目が開いた。
「大丈夫か?わたしがわかるか?」
微かに微笑んで、三日月の目になる。
「痛うはないか……?おギギは喉に酷い怪我をしたのじゃ。声を出してはならぬぞ。」
秀幸の手の中で、緩く指が動いて秀佳を指さした後、文字を書いた。
『 こ え 』
「うん。わたしの声か?心配いたすな、とうに戻っておる。」
「おギギも、きっと良くなるゆえ養生いたせ。これからは、秀幸が守る番じゃ。……おギギは、秀幸の大切な小草履取りゆえ、ずっと傍に置く。共白髪になるまで、生涯わたしの傍で暮らせ。良いな、どこにも行かぬと約束いたせ。」
細めた瞳に、薄く涙が滲んだ。指がゆっくりと動いた。
『 わかさま 』
『 いっしょ 』
『 うれし 』
「うん。わたしもうれしい。おギギが生きておれば、もう何もいらぬ。」
『 うれし 』
二人の双眸に盛り上がった涙が、共に堰を切った。
於義丸は必死に身を起こそうとする。秀幸は寝ておれと口にしたが、首を振った。
「頼むから横になっておれ。わたしは、そなたを心より愛おしいと思う。これからは、そなたにふさわしい主になって報いたいと思う。良いな、おギギ……いや、つゆ。」
真実の名を告げられて、草は身じろいだ。
秀幸は胸にしっかりと、忠義な家臣を抱いた。熱を持った身体は細く頼りなかった。
この華奢な身体を張って、命がけで自分を守り傷ついた忍び草。
「つゆ。傷は痛まないか……?」
小さく頷いて自分を見つめる於義丸の肩に手を掛け、そっと身体を横たえた。
熱のせいで乾いた唇が白くかさついていた。
指先でそっとなぞると、薄い唇が開いた。人差し指を子供のように、ちゅっと吸った。
「赤子のようじゃ、つゆ。口を吸ってやりたいが傷に障るから、またの……。」
腕が伸ばされ、秀幸の頬にかかった。くいと腕を曲げて、そのまま秀幸を引き寄せた。秀幸の頭を胸に抱え、声の無い草は咽んでいた。
『 わかさま 』……
ほろ……と、想いが溢れた……。
本日もお読みいただきありがとうございました。
ランキングに参加しております。よろしくお願いします。
第一部は、あと一話で終わる予定です。 此花咲耶
はこべら
ほとけのざ
やまぶき
つめくさ
ははこぐさ
実のない山吹 七重 八重
蘇芳 血の色 わたしと逃げよ……
いつか夢の中で聞いた「草」の歌を、子供を寝かしつけるように、秀幸は小さく枕辺で歌った。何故か耳に残る、子守唄のような優しい旋律だった。
於義丸と呼んでいた少年は、実は儚い野の花の名を持つ、寄る辺の無い寂しい伊賀の里の出身だった。
於義丸がこのような歌を歌っていたのですと、秀幸が口ずさむと、歌に出てくる草の名前は、おそらく於義丸の仲間の名前だろうと、叔父、兼良が教えてくれた。
忍びは、仕事の度にいくつもの名と顔を持つと言う。
すおうも、はこべらも、仏になった。
やまぶき、つめくさは、母子であった。
「実」のない山吹に「身」をかけて、多くの仲間が七重八重に折り重なって、みんな死んでしまって悲しいと泣く歌……。
亡くなってしまった仲間を忘れないで恋う、忍びの里の悲しい伝承歌だった。
「露丸」という、姿に似合いの美しい名の草は、蘇芳のような血の色に染まり、命を懸けて秀幸を守った。
*****
「おギギ……、早う目を覚まさぬか。もう二つ目の夜が明けるぞ。」
じっと手を握り、気がつくのを待っていた秀幸は、於義丸の首の辺りに、ふと紅い紐が覗くのを見つけた。
「なんじゃ……?」
そっと引き上げると、それは小さな守り袋だった。
生まれた折りに、両親が父と母と子供の名を入れて持たせたものだろう。そっと袋の口を開けて、守り袋の中を確かめた。
ちち はやて
はは かげろう
こ つゆ
女文字で書かれてあったのを見ると、母の手によるものかもしれない。
「おギギの本当の名は、「つゆ」と言うのじゃな。似合いの名じゃ……。」
秀幸は一緒に入っていた小さく折り畳まれた、もう一枚の紙を広げた。
「これは……。」
秀幸の指先が震えた……。
それは、手習いをする於義丸が、上手く書けたと初めて褒めてもらった半紙の上に、秀幸が意地悪く重ねて朱で魚の絵を描いたものだった。
「おギギ。こういうものには、落款が要るのじゃ。」
「手本にせよ。」
そんな意地悪な言葉が、脳裏に思い出された。
「おギギ……。」
そんなものに心を寄せて、後生大事に守り袋に入れて戦場に出たのか……。涙をこらえたら、鼻の奥がつんと痛んだ。
「わたしには、おギギが命をかける価値などない……。」
重傷を負い、忙しなく浅い息をつく於義丸を、冷たく踏みつけにして来たこれまでの自分の非道を責めた。
秀幸は人払いし、固く目を閉じる於義丸の側で、じっと気が付くのを待っていた。
生まれ変った於義丸が、初めて目を開けたとき、見るものが自分でなければと思った。実に応えるために、自分も共に生まれ変わろうと決意した。
眉根がひそめられ、睫毛がふるっ……と動いた気がする。
「おギギっ!?」
しばしばと睫毛が震え、やがてゆっくりと目が開いた。
「大丈夫か?わたしがわかるか?」
微かに微笑んで、三日月の目になる。
「痛うはないか……?おギギは喉に酷い怪我をしたのじゃ。声を出してはならぬぞ。」
秀幸の手の中で、緩く指が動いて秀佳を指さした後、文字を書いた。
『 こ え 』
「うん。わたしの声か?心配いたすな、とうに戻っておる。」
「おギギも、きっと良くなるゆえ養生いたせ。これからは、秀幸が守る番じゃ。……おギギは、秀幸の大切な小草履取りゆえ、ずっと傍に置く。共白髪になるまで、生涯わたしの傍で暮らせ。良いな、どこにも行かぬと約束いたせ。」
細めた瞳に、薄く涙が滲んだ。指がゆっくりと動いた。
『 わかさま 』
『 いっしょ 』
『 うれし 』
「うん。わたしもうれしい。おギギが生きておれば、もう何もいらぬ。」
『 うれし 』
二人の双眸に盛り上がった涙が、共に堰を切った。
於義丸は必死に身を起こそうとする。秀幸は寝ておれと口にしたが、首を振った。
「頼むから横になっておれ。わたしは、そなたを心より愛おしいと思う。これからは、そなたにふさわしい主になって報いたいと思う。良いな、おギギ……いや、つゆ。」
真実の名を告げられて、草は身じろいだ。
秀幸は胸にしっかりと、忠義な家臣を抱いた。熱を持った身体は細く頼りなかった。
この華奢な身体を張って、命がけで自分を守り傷ついた忍び草。
「つゆ。傷は痛まないか……?」
小さく頷いて自分を見つめる於義丸の肩に手を掛け、そっと身体を横たえた。
熱のせいで乾いた唇が白くかさついていた。
指先でそっとなぞると、薄い唇が開いた。人差し指を子供のように、ちゅっと吸った。
「赤子のようじゃ、つゆ。口を吸ってやりたいが傷に障るから、またの……。」
腕が伸ばされ、秀幸の頬にかかった。くいと腕を曲げて、そのまま秀幸を引き寄せた。秀幸の頭を胸に抱え、声の無い草は咽んでいた。
『 わかさま 』……
ほろ……と、想いが溢れた……。
本日もお読みいただきありがとうございました。
ランキングに参加しております。よろしくお願いします。
第一部は、あと一話で終わる予定です。 此花咲耶
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