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杏樹と蘇芳(平安) 5 

平安のころの話である。




その夜、約束通り寝所に現れた杏樹に、次郎は思わず眉を曇らせた。
まさか、本当に自分から寝所へと足を運ぶ事はあるまいと思っていた。
何も知らない無垢な美童を哀れに思い、そのまま来ずとも見逃してやろうと思っていた。

これまで人買い、山椒大夫の元に連れてこられたものは、最初は殊勝でもすぐに自分の事だけを考える。
次郎が抱いたものも皆そうであった。
媚とへつらいを浮かべ、おもねる仕草で次郎を誘った。
うわべだけ取り繕って、我が身かわいさに平気で身内を売るようなものばかりだったのだ。
それなのに、白い夜着の襟をきつくあわせて現れた杏樹は、弟の為に手をついた。
その顔は、紙のように白くなっている。

「何もわかりませぬが、どうぞご存分に……なさってください」

唇を震わせてやっと口にしたその言葉に、嘘はないと思った。

「おまえは、それで良いのか?」
「……父母には、返しきれない大恩がございますれば」

次郎を見上げた目は、心なしか熱っぽく潤んでいた。
流刑になった父の元へと向かう途中、船頭にかどわかされて屋敷へ売られてきた毛色の良い兄弟だった。
突然、降ってわいた理不尽に、畏まった杏樹の心は千千(ちぢ)に乱れているだろう。
元より平気なはずなどなかったのだ。
握り締めた拳が、哀れにも小刻みに震えていた。

「まだ、その方の名を聞いていなかったな」
「杏樹と申します」
「良い名だ。お前に似合いの美々しい名だな、杏樹」
「はい。母上が付けてくださいました。里山に杏の花が咲く場所があるのです。麓(ふもと)は薄桃色の裳裾を引いたように霞むのです」

ふっと一瞬、柔らかく微笑んだ顔に、次郎は見覚えがあった。
どこか、亡くなった兄嫁に似ているような気がした。
あの日、兄嫁を襲った不幸を、守れなかった山椒大夫と次郎が忘れられるわけなどなかったのだ。

一方、蘇芳は粗末な布団の上に転がって、壁に向かい大きな目を凝らしていた。
決して眠るわけにはいかなかった。
兄が蘇芳が眠るのを待って、そっと寝床を抜け出すつもりなのを蘇芳は知っていた。

背後から、自分の気配をうかがう兄の様子が見て取れた。
くるりと寝返りを打つ振りをして、蘇芳は布団に顔をうずめた。
燭台が、自分を照らすのを感じたが、身じろぎもせず寝息を立てる振りをした。

兄は弟をひたすら思い、弟は兄に心配を掛けぬように、泣くまいと歯を食いしばっていた。
たん……と、板戸が滑るのを背中で聞き、蘇芳は灯りの無い部屋に半身を起こした。
蘇芳はただ兄が心配で、足音をさせぬように密かに兄の後を追った。
追ったからとて、どうしようもなかったのだが……。
空に冴え冴えと輝く月だけが、蘇芳を励ました。







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