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杏樹と蘇芳(平安) 14 


平安のころの話である。




蘇芳がいなくなったのは、八つ時にすぐに明らかとなった。
奴婢が逃げ出さぬように、軽い昼餉は共に取ることになっていたからだ。
速やかに知らせは屋敷へと走り、浜で塩を汲んでいた杏樹はすぐに引き出され、山椒大夫の厳しい詰問を受けた。
「蘇芳の行方が分からなくなった。答えろ、杏樹。お前が逃がしたのだな?」
「知りませぬ」
杏樹は白い顔を上げ、悪びれることなく、じっと澄んだ目で山椒大夫を見つめていた。
「仲買人に抱かせたのがまずかったのか。まさかお前が、閨(ねや)で遊び女のように逃亡をねだるとは思ってもみなかった」
「元々、蘇芳もわたしも空飛ぶ鳥のように自由な身の上を、ここに無理やりかどわかされて来たのです。屋敷を去るのに何の断りが要りましょう」
山椒大夫は、手にしていた盃を杏樹に向かって投げつけた。
「空飛ぶ鳥のように自由な身の上だと?!奴隷商人に金を払った以上、お前も蘇芳も骨の髄までわしの持ち物だ。煮ようが焼こうがおまえの指図など受けぬ。この上は蘇芳の分まで、働くが良い。鶴のように優美なお前に似合いの方法でな」
口の端を歪め、恐ろしい笑顔で山椒大夫は「見せしめじゃ。」と告げた。

奴婢頭、数人を呼び付けると、山椒大夫は恐ろしい命令を下した。
「日頃の労をねぎらってやるから、明日の仕事は休め。奴婢の者どもにも、酒をふるまってやる。主らの苦労は、今からこの杏樹が、慰めてくれるそうじゃ」
杏樹は取り乱すことなく、穏やかな顔で「ご存分に」と、頭を下げた。
思わぬ申し出に男どもは色めき立ったが、今一つ信じきれない様子だった。
杏樹は山椒大夫の実弟、次郎のお気に入りでいつも傍に有ったのだ。
山椒大夫の言葉通り、杏樹を慰み者にすれば販路を広げるための旅から帰ってきた次郎の、恐ろしい逆鱗に触れるのではないかと恐れた。
「間違うなよ。屋敷の主はこのわしで、次郎ではないぞ。このわしが、許すのだ」
その声に、奴婢頭共は喜色を浮かべ顔を見かわした。
既に、杏樹の心は決まっていた。
「杏樹。言うことがあるなら聞いてやる。詫びを言って、わしに縋ってみるか」
杏樹は強張った白い頬を、ほんの少しだけ染めてきっぱりと告げた。
「お館さまには、神仏の加護を信じておりましょうや?」
「そのようなもの、とうに捨てた」
「わたしの父は、常にどこにあっても神仏は人を見ているとおっしゃいました。過ぎた災厄を恨まず誰にも優しゅうすれば、いつかあなた様にも御加護が届きます」
「そなたの額を焼いたとき、観音像に救われたのだな。今も、そこにあってお前を衛っているのか?」
「いいえ、ただ一つの願を掛け、弟に託しました。それでも、御仏のご加護を信じております」
「戯言をいうでない」
山椒大夫は、縁から飛び降りると杏樹に手を掛け、帯を抜いた。
合わせがはらりと開くのを、思わず押さえた杏樹に山椒大夫は言い捨てた。
ごくりと誰かの喉が鳴る。
この屋敷には女子がいない。
零れた輝く肌に、飢えた視線が絡みつくように注がれていた。
「明日の朝、もう一度話を聞いてやる。明日になってもまだ神仏の加護を信じているか見ものだな。生き地獄を見せてやろう、杏樹。こやつを奴婢小屋へ連れて行け」

立ちあがった地獄の悪鬼、牛頭(ごず)鬼、馬頭(めず)鬼に取り囲まれて、哀れ杏樹は奈落へと向かう。
背後からとんと肩を突かれ、薄く小汚ない小屋の褥に転がされた。
ただ一人優しくしてくれた次郎は、その頃、ある土産話を胸に秘めていた。
杏樹を思いながらひたすら帰りを急ぎ、峠を走っていた次郎だったが、杏樹を襲う災厄を思い浮かべたりはしなかった。






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