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杏樹と蘇芳(平安) 10 


平安のころの話である。




山椒大夫は傷痕の残らなかった杏樹を見ても、何も言わなかった。
むしろ綺麗な顔に傷を作らずに済んだと、深く安堵していたのは、その場で兄の狼藉を止められなかった次郎の方だ。
「良かったのう、杏樹。観音様のおかげで、元の綺麗な顔のままじゃ」
「はい、次郎さま。ありがたいことでございます」
熱の引いた杏樹は変わらぬ笑みを浮かべ、心配する次郎の胸に身体を預けた。
次の日にはもう、塩を汲みに出かける支度をする杏樹に、いたわりの言葉を掛けながら次郎は髪を梳き後ろで結わえてやった。
この細い体のどこに、弟の代わりに身体を投げ出す強さがあるのか、次郎はじっと杏樹の顔を覗き込んだ。
「次郎さま。あの……わたしの顔に、何かついておりますか?」
「うん。……実はの」

次郎は杏樹を見つめていて、やっと気が付いた。
艶やかな髪を下ろし櫛を挿せば、杏樹は10年以上も昔に野盗に襲われて連れ去られた美しい義姉、山椒大夫の妻にとてもよく似ていた。
仲睦まじく山椒大夫と暮らしていたのに、ただの一夜で全てが泡沫と消えた。
負け戦の残党が徒党を組み、野盗となって山椒大夫の館を襲ったのだ。
「杏樹は、亡くなったわしの義姉上に良く似ておる」
「義姉上様ですか?」
「今は屋敷内で誰も話をしないが、この里に女子を入れない訳がそこにあるんだ」
「それは、どういう?」
うん……と、次郎は遠い目をした。

主である山椒大夫が、一族郎党を率いて敵方を深追いしている時に、館は手薄で隙を突かれた。
物心ついたばかりの次郎は、その日、義姉が納戸に隠してくれたせいで助かったのだった。
「わしはまだ子供だったが、兄者は幼子と恋女房を一時に失ったのだ。館に帰ってきた兄者の嘆きは深かった。あれから、兄者は変わってしまったのだ」
次郎は胸の痛くなるような、昔語りをした。
「兄者はのう、それこそ血眼になって、連れ去られた義姉上を捜したのだ。三日三晩、松明をかかげて里中をくまなく訊ね、草の根もかき分けるようにしての」
「それで義姉上さまは?」
「なますに刻まれて、川べりで見つかった。野犬に食い荒されて、残った着物の切れ端でやっと義姉上とわかったのだ。赤子はそれ以来、見つからぬ。おそらく、食い殺されてしまったのだろう」
「それから、この里に女子(おなご)は入れぬようになったんだ。似た年頃の女子を見ると、兄上にはあの辛くて恐ろしい記憶が戻るのだろう」
「お気の毒に……」
杏樹は涙を浮かべていた。

次郎はそんな杏樹を、背後からそっと抱きしめた。
この見目良い少年が、愛おしくてたまらなくなっていた。
「あれほどの目に合わされても、お前は兄上の為に泣けるのか?」
杏樹は何とか笑って見せたが、目尻を透明な粒が転がっていった。
無性に悲しかったのは、血も涙もないと思っていた山椒大夫の深い悲しみを知ってしまったからだろうか。
次郎が袖の端で杏樹の涙をぬぐうと、別れの儀式のように素早く口を吸った。
「不思議だな。そういう涙もろい所まで義姉上に似ておる。そういう風に、誰にでも優しい所もな。離れたくはないが、仕事だ。無理をせず、身体を厭えよ」
「はい。次郎さま」

峠の上から次郎は杏樹に向けて手を振った。
藻塩の販路を広げるために、奥州まで足を延ばすのだという。
次郎がいなくなったら、酷薄な山椒大夫の屋敷で自分がどうなるのか、杏樹は不安の種を抱えながら懸命に塩を汲んだ。

まるで、新妻のように赤い着物を着て働く杏樹を、山椒大夫が見詰めていた。






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