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杏樹と蘇芳(平安) 9 

平安のころの話である。




杏樹の細首を押さえつけると、山椒大夫は胸にどっと腰を下ろし動けなくした。
火桶から焼きごてを取り上げると、じっと杏樹を見つめ気は変わらぬかと問いかける。
地に転がった杏樹は、緊張しながらも静かに答えた。
「変わりませぬ。蘇芳の代わりに、この兄が咎は受けます」
「そうか。望みとあらば仕方あるまい」
顔色も変えず山椒大夫は、杏樹の額に取り上げた焼きごてを押しつけた。
じじ・・・と、肉の焦げる匂いがし、杏樹は余りの痛みに悲鳴を上げてのけぞり、その場に身を丸めた。
「うぅああぁーーーーっ!!」

倒れた杏樹の額に罪人の印「犬」の文字が張り付いていた。
悲鳴を聞いて瞬時に気が付いた蘇芳が、杏樹の額を見るなり掻きつき半狂乱になった。
「兄上っ?!杏樹兄上――――っ!どうして……っ!?兄上――――っっ!うあああぁーーーっ……」
蒼白の杏樹を抱きしめて蘇芳が、慟哭した。
一体、兄が何をしたというのだ。
何の落ち度もなく、かどわかされて貶められただけではなく、このように烙印まで押される辱めを受けようとは……
「許さぬっ!おのれ、山椒大夫っ!」
蘇芳の血涙を振り絞るような怒声に、ふっと気付いた杏樹が、袖をつかんだ。
「い、いけない、蘇……芳……っ、観音様を……兄さまの、懐にあるから……」
「うん、観音様ならここにある。兄上……蘇芳のせいで……兄上が……兄上の綺麗なお顔に焼き鏝が……」
盛り上がってきた涙を払った。
「泣くな、蘇芳……。兄さまの、大切な蘇芳に……何事もなくて……良かっ……」

ぱたりと、力なく腕が落ちた。
額に血がにじみ、つっと筋を作り流れ落ちた。
「兄上っ!兄上――っ!」
駆け寄った次郎が、意識を失くした杏樹を抱え、寝所へと運んだ。
すぐに額は冷やされ、蘇芳は杏樹の額に観音像を押し当て必死に念仏を唱えた。
杏樹は汗に浮き、苦しんでいた。
長い間の心労、身体の疲れもあり、出た高い熱はなかなか下がらなかった。
蘇芳は、出がけに見た兄の美しい姿に動転し、悪しざまに罵ったのを思いだし辛くなった。
本当は明るい色の着物を着た杏樹の事を、とても綺麗だと思ったのに。
「観音様。どうぞ、兄上の苦しみを蘇芳に与えてください。蘇芳がいけなかったのです。兄上がどこか遠い人になってしまった気がして……兄上は何もお変わりなかったのに……あに……うぇっ……」

兄の枕辺で介抱するのを許された蘇芳は、一晩中、懸命に経を唱えた。
「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……どうか兄上をお救いください」
気のせいかと思ったが、小さな金無垢の観音像が物言いたげなのに気付き、そっと杏樹の額に押し当てた。
部屋に目映い光が満ちてゆく。
南無妙法蓮華経……と唱える蘇芳は、観音像の額に焼きごてと同じ字が浮かぶのを見た。
「観音様……兄上……?」

こちらを向いた涼やかな兄の視線に気が付いて、思わず声を掛けた。
「観音様にお会いしてきたよ。不思議だねぇ。兄さまが、蘇芳が大好きだと言ったら、ご褒美に痛みを取ってあげようよとおっしゃったよ。これからも仲良くしておいでって」
「兄上……っ」
観音の化身のように、どこまでも清浄な微笑みだった。
蘇芳は兄の胸に顔を埋めた。
「兄上、ごめんなさい。蘇芳は杏樹兄さまの堪忍を、台無しにしてしまうところだった……」
杏樹は半身を起こし、そっと蘇芳に耳打ちをした。
「兄さまがいつか、蘇芳を自由にしてあげる。だから……いいね。もう少しだけ、我慢してここで働くんだよ」
蘇芳はこくりと頷いた。

金無垢の観音は、兄弟の願いを聞き入れて自分の額に火傷を移してくれた。
押し戴いた本尊に、杏樹は「どうぞ、これからも蘇芳をお守りください」と、ただ一つの願を掛けた。
杏樹は、祈りを聞き届けた金無垢の本尊を愛おしげに撫で、懐に大切に忍ばせた。
杏樹の胸に秘めた決心を、観音像だけが知っていた。






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