真夜中に降る雪 4
会社にはいくつも部門がある。
春美はクーポン券の付いたフリーペーパーを専門に作る部署に配属された。
駅などに大量に陳列されている、あれだ。
新しい仕事は足で稼ぐ。
直属の上司は最初、配属されて来た里中春美を見て、少し不安げだった。
「ここは体力勝負なんだ。里中君はずいぶん細いけど大丈夫かな?」
春美は曲がりなりにも中学からずっと野球をやってきて、多少の持久力は付いている。
「こう見えても、見かけより体力はあるんです。安心してください」
ぐっと細腕に力瘤を作って見せると
「そうか、頼もしいな、新人。やる気があるのは結構だ」
と、上司が大きく頷いて破顔した。
しばらくの間、先輩社員が懇切丁寧に仕事を教えてくれたが、一か月もすると新入社員だけで、朝から晩まで新しい顧客を探して歩くことになった。
幸い、配属先が一緒になった同期の松前孝幸(まさき たかゆき)は、人当たりがよく初対面の顧客を懐柔するのに長けていた。
入社式で初めて口を利いた孝幸は、口下手な春美をさりげなく自然に補ってくれた。
こういうのを、持って生まれた営業センスというのだろう。
仕事の相棒として組みやすく、体力的にはきついがやりがいのある仕事だった。
一方、入社式に会ったきり、二足の靴を履き潰しても聡一の姿を見ないことに、春美は安堵していた。
姿は見えなくても、どこかで関わっている、それだけで心が和いでいた。
仕事に夢中になった春美の、社会人としての生活が淡々と続いてゆく。
そして、年末も押し迫ったある日、予期せぬ事故は、起こった。
クリスマスの前日、独身ばかりの同期の集まりに誘われて、春美は忘年会へと赴いた。
春美の仕事がしやすいように、常に交通手段を調べ、先方の情報をこまめに調べてくれる同期入社の彼女も孝幸も一緒だった。
二十歳をすぎてからは、さすがに女性と間違われることはなくなった春美は、仕事にも慣れたころから親切な彼女の誘いに乗り、普通の男女の付き合いをしていた。
それでも性欲はたぶん、他の男に比べれば希薄なほうなのだろうと思う。
実際は物足りないのではないかと、彼女にも申し訳なく思っていた。
滅多に欲情しない春美は、周囲に草食系男子、乙女系と位置づけられても、ただ黙って微笑んでいた。
「ね……今夜、食事に行かない?二人きりで」
春美が向かうパソコン前で、彼女の方からそっと手を重ねてきたのが始まりだった。
健康そうな強い瞳が、印象的だった。
時々食事をし、酒も飲んだ。
リードされながら付き合っている自覚はあったが、彼女が触れてくれば感じるし、年相応に育ったささやかな雄はしっかりと反応した。
「晴美君……」
「んっ、達きそう」
「いいわ、来て」
熱い潤みに自分を突き入れるたび、彼女が頭を振るたびに、目を閉じていつも自分に言って聞かせる。
この行為が何よりも「自然」なのだと。
心の奥で騒ぐものの正体を知ってはいたが、決して認めてはならなかった。
深く封じ込めた澱を、穏やかな日常に立ち上らせてはならない。
***
ビル全体が居酒屋になっている場所に、忘年会の二次会場所はあった。
一軒目で少し酔ってしまったらしい彼女がふらついたのを、華奢な春美は受け止められなかった。
「あっ!」
ヒールが当たり、向うずねの痛みに呻いた。
降って来た彼女の全体重を、かろうじて押し戻すのが精一杯だった。
手すりを掴もうとしたが、落下の速度が早すぎて空すべりした。
多少の酔いが災いしたのかもしれない。
「きゃああ――っ!」
「里中っ!」
高い悲鳴の響く居酒屋のビルの、狭い打ちっぱなしの階段を、春美はもんどりうって転がり落ちた。
「春――っ!」
ふわり……と空に身体が投げ出されて浮いた時、階段の上にずっと求めてきた人の顔を見た気がする。
「せんぱ……」
咄嗟に互いが指を伸ばした。
落下しながらうっかり微笑んでしまったような気もしたが、コンクリートの踊り場に叩きつけられた瞬間、全身を襲う痛みとありえない骨の軋む音が、一気に意識を連れ去った。
届かなかった指先が、泣きながら床を拭いたあの日のように冷たかった。
「春――――っ!」
血相を変えて、階段を落ちるように駆け下りてきた聡一の姿を、春美は知らない。
「え?芳賀さん、何でこんなところに?」
同期の孝幸が駆け寄るよりも早く、聡一は人波をすり抜けた。
慌てて孝幸も続いた。
「春っ!春っ!」
「芳賀さん!駄目ですっ!動かさないほうが方が良いです!直ぐに、救急車呼びますから」
「春っ!」
松前がとめなければ、聡一は春美を抱き上げたまま、病院まで走りかねない勢いだった。
いぶかしげな視線を向ける、松前孝幸の存在さえ聡一には眼中にない。
ひたすら名を呼び続けた。
春美の小さな顔をひざに拾い上げ、青ざめた聡一は救急車が来るまでじっと身じろぎもしなかった。
誰も、言葉をかけることすら出来なかった。
孝幸さえも……
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春美はクーポン券の付いたフリーペーパーを専門に作る部署に配属された。
駅などに大量に陳列されている、あれだ。
新しい仕事は足で稼ぐ。
直属の上司は最初、配属されて来た里中春美を見て、少し不安げだった。
「ここは体力勝負なんだ。里中君はずいぶん細いけど大丈夫かな?」
春美は曲がりなりにも中学からずっと野球をやってきて、多少の持久力は付いている。
「こう見えても、見かけより体力はあるんです。安心してください」
ぐっと細腕に力瘤を作って見せると
「そうか、頼もしいな、新人。やる気があるのは結構だ」
と、上司が大きく頷いて破顔した。
しばらくの間、先輩社員が懇切丁寧に仕事を教えてくれたが、一か月もすると新入社員だけで、朝から晩まで新しい顧客を探して歩くことになった。
幸い、配属先が一緒になった同期の松前孝幸(まさき たかゆき)は、人当たりがよく初対面の顧客を懐柔するのに長けていた。
入社式で初めて口を利いた孝幸は、口下手な春美をさりげなく自然に補ってくれた。
こういうのを、持って生まれた営業センスというのだろう。
仕事の相棒として組みやすく、体力的にはきついがやりがいのある仕事だった。
一方、入社式に会ったきり、二足の靴を履き潰しても聡一の姿を見ないことに、春美は安堵していた。
姿は見えなくても、どこかで関わっている、それだけで心が和いでいた。
仕事に夢中になった春美の、社会人としての生活が淡々と続いてゆく。
そして、年末も押し迫ったある日、予期せぬ事故は、起こった。
クリスマスの前日、独身ばかりの同期の集まりに誘われて、春美は忘年会へと赴いた。
春美の仕事がしやすいように、常に交通手段を調べ、先方の情報をこまめに調べてくれる同期入社の彼女も孝幸も一緒だった。
二十歳をすぎてからは、さすがに女性と間違われることはなくなった春美は、仕事にも慣れたころから親切な彼女の誘いに乗り、普通の男女の付き合いをしていた。
それでも性欲はたぶん、他の男に比べれば希薄なほうなのだろうと思う。
実際は物足りないのではないかと、彼女にも申し訳なく思っていた。
滅多に欲情しない春美は、周囲に草食系男子、乙女系と位置づけられても、ただ黙って微笑んでいた。
「ね……今夜、食事に行かない?二人きりで」
春美が向かうパソコン前で、彼女の方からそっと手を重ねてきたのが始まりだった。
健康そうな強い瞳が、印象的だった。
時々食事をし、酒も飲んだ。
リードされながら付き合っている自覚はあったが、彼女が触れてくれば感じるし、年相応に育ったささやかな雄はしっかりと反応した。
「晴美君……」
「んっ、達きそう」
「いいわ、来て」
熱い潤みに自分を突き入れるたび、彼女が頭を振るたびに、目を閉じていつも自分に言って聞かせる。
この行為が何よりも「自然」なのだと。
心の奥で騒ぐものの正体を知ってはいたが、決して認めてはならなかった。
深く封じ込めた澱を、穏やかな日常に立ち上らせてはならない。
***
ビル全体が居酒屋になっている場所に、忘年会の二次会場所はあった。
一軒目で少し酔ってしまったらしい彼女がふらついたのを、華奢な春美は受け止められなかった。
「あっ!」
ヒールが当たり、向うずねの痛みに呻いた。
降って来た彼女の全体重を、かろうじて押し戻すのが精一杯だった。
手すりを掴もうとしたが、落下の速度が早すぎて空すべりした。
多少の酔いが災いしたのかもしれない。
「きゃああ――っ!」
「里中っ!」
高い悲鳴の響く居酒屋のビルの、狭い打ちっぱなしの階段を、春美はもんどりうって転がり落ちた。
「春――っ!」
ふわり……と空に身体が投げ出されて浮いた時、階段の上にずっと求めてきた人の顔を見た気がする。
「せんぱ……」
咄嗟に互いが指を伸ばした。
落下しながらうっかり微笑んでしまったような気もしたが、コンクリートの踊り場に叩きつけられた瞬間、全身を襲う痛みとありえない骨の軋む音が、一気に意識を連れ去った。
届かなかった指先が、泣きながら床を拭いたあの日のように冷たかった。
「春――――っ!」
血相を変えて、階段を落ちるように駆け下りてきた聡一の姿を、春美は知らない。
「え?芳賀さん、何でこんなところに?」
同期の孝幸が駆け寄るよりも早く、聡一は人波をすり抜けた。
慌てて孝幸も続いた。
「春っ!春っ!」
「芳賀さん!駄目ですっ!動かさないほうが方が良いです!直ぐに、救急車呼びますから」
「春っ!」
松前がとめなければ、聡一は春美を抱き上げたまま、病院まで走りかねない勢いだった。
いぶかしげな視線を向ける、松前孝幸の存在さえ聡一には眼中にない。
ひたすら名を呼び続けた。
春美の小さな顔をひざに拾い上げ、青ざめた聡一は救急車が来るまでじっと身じろぎもしなかった。
誰も、言葉をかけることすら出来なかった。
孝幸さえも……
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