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真夜中に降る雪 14 

どのくらいの時間が経ったのだろう。

薄く目を開ければ、夜明け前の薄暗い空に、薄い朱色の雲が横たわるのが見えた。
視線を流せば、ぼんやりと月明りに照らされた、聡一の顔が目に入る。
くっきりと高くしっかりとした鼻梁、出会った時にときめいた変わらぬ端正な顔に、しばしの間、春美は見惚れていた。

「先輩。こんな顔してたんだ」

いつも聡一の顔を見上げる時は、涙で滲んだ輪郭しか記憶になかった。
聡一に抱え込まれるようにして、春美は眠っていたらしい。
巻き込まれた腕の重さに、どこかほっとする。
このまま流れるままに落ちてしまおうかと、思わなかったといえば嘘になる。
しかし本心を吐露する前に、春美の身体が反抗した。
きっと癒えない生傷ではあったけれど、春美の中で聡一は過去になりつつあったのだ。

誰もが夢中になった、快活な野球部主将の顔の裏側に、若い聡一ではどうにもならなかった大人の事情があった。
聡一もまた、苦しんでいたと知った今、答は一つしかなかった。

そっと過去から抜け出して、春美は衣服を身に着けた。
もしも、乱暴にされていたら……聡一があのまま春美を強引に抱いていたら、きっともう元の世界には戻れなかっただろうと、少しほっとしていた。
奔流に押し流されて、渦にもまれる木の葉のようになっていたはずだ。
ここまで引きずるには、たぶん自分の根底には認めたくないけれど、少しは被虐を求める血が流れているのかもしれない。
初めての行為は、鮮烈に記憶の中に刻み込まれて、忘れようもなかった。

涙の溜まりができるほど泣きながら……
身悶えするほど総毛立ち、いやと全身で拒みながら……
いっそ消えたいと思いながらも……きっとどこかで毎日誘われるのを待っていた。
大好きな大嫌いな先輩。

ほんのりと明けかけた朝方の街を見下ろす。

「わあ……雪!」
「春……?」

うっかりと声をあげたら、聡一は起き出して来て春美の傍に来た。

「随分積もったね。春が倒れた真夜中から、ずっと降っていたよ。見事なくらい真っ白だなぁ」
「みんな雪の下に隠されてしまいました。」
「そうか、隠されてしまったか。言っておくよ。春は、自暴自棄な頃の俺の、たった一つの大切な物だった」

昨日の続きですか?と春美はふふっと楽しそうに笑う。
涙ぐんで微笑むしか出来なかった、昨夜の顔と違っているのに聡一は気がついた。

「春。子どもみたいに笑う。雪が降ったのがそんなに嬉しいのか?」
「はい。懐かしいです。母方の祖父母が東北でしたから」
「それで、色白いのか、春」

ネクタイを結びながら、大人の男の顔で春美が初恋の聡一の顔をじっと見つめる。

「……はぁちゃんの所に、帰るんでしょう?先輩」

それには答えず、聡一は腕をまわした。
ぎゅっと抱き締められて、春美は聡一の肌の匂いをかぐ。
この状態が信じられなくて、鼓動が跳ね上がった。

「春。行くな……」
「ぼく、意地悪なんです。はぁちゃんの事、泣かせたくない。それに先輩、これでずっとぼくの事忘れないでしょう?おあいこです。ぼくも打ち明けます。何をされても、泣かされても、先輩だから好きになったんです。ぼくを苛めながらいつも苦しそうだった、先輩」

窓下に広がる清らかな世界を見ながら、背後から春美を抱き締めた聡一が、耳元で優しく名を呼ぶ。

「春。ちゃんと愛してやれなくて、ごめんな……おまえは、俺にとってずっと真夜中に降り積む雪だったよ。俺の中の醜い部分も、情けない部分も、みんな覆い隠してしまうんだ。おまえといたら、平らな一面の綺麗な銀世界だけが俺の全てになる」

嬉しくて、言葉が震えそうになる。

「以外とロマンチックだったんだ、先輩。でも、子どもにぼくの名前を付けちゃいけませんよ」

名前を付けたのは俺じゃなく、妻なんだ……と聡一が告げた。

「え……?だって……」

「何か恥ずかしい話なんだが、何年か前に野球部の同期会で、散々酔った時にぶちまけたらしいんだ。春のこと」

春美はすっかり呆れていた。

「春、ごめんって、泣きながらわめいていたらしい。で、その後子どもが出来て名前を付ける時に、妻が言ったんだ。「春」にしましょうって。酔わないと誰かに謝れないような人は、一生かけて償わないと駄目……って」
「うわ~……そんなぁ」

女って怖い。

「大切に育てて、その人のこと忘れないでいましょうって。あなたが忘れないほど酷い事をしたのなら、その分私たちの春を代わりに愛してあげましょうって」

……信じられない。
女って、偉大。

春美の瞳が、光を弾いた。

「先輩。はぁちゃんを愛してくれてありがとう。春を……ぼくを忘れないでいてくれてありがとう。ぼくも、ぼくの居場所に帰ります」
「そうか。送る……らなくていいな。車を呼ぼう」

どこかに電話をして、2.、3分で来るからと聡一は笑顔を向けた。
別れを告げたら、不意にこわばった顔をして春美の顔を挟みあげ、聡一はじっと見つめた。

「がんばるなよ、春。負けず嫌いなのは知っているけど、少しは甘える事も覚えて生きろ」
「せんぱ……ぃ」

二人は抱き合って自然にキスを交わした。
7年分の後悔と、思慕。
懺悔と未来への祝福。

「……さようなら、せんぱ……ぃ。」

****

厚い雪雲の切れ間から、朝日が漏れて光の梯子を作っていた。

雪は一晩中降り積もり、街中が白く覆われて景色が変わって見える。
西洋の童話の中の風景のようだ。

「先輩、知っていますか。あれね、雲から射す光のことね、天使の梯子って言うんですよ」
「へぇ。そんな名は初めて聞いたよ。物知りだな、春」
「光芒とも言うんですけど、何か神さまに祝福されている感じで、ぼく、とても好きなんです」

別れ際、春美は聡一に向けて、これまでみた事もない艶やかな微笑を浮かべた。
思わず息をのみ、春……と、声をかけた。
消え入りそうな後輩がいつも自分に見せていたのは、振り向いた悲しげな美しい笑顔だけだった。
聡一は、このまま春美を手放す自分に、これで良いのかと問うた。

「春。いいか?仕事はしばらく休暇をとれ。会社には通しておくから」

春美が頷くことはなかった。
決意を決めて、退社の意思を告げた。
煌く強い瞳に、もう気持ちが変わることはないのだろうと聡一は思う。
見た目の線の細さを裏切って、いつも春美は懸命で強かった。

「今の仕事はとてもやり甲斐があって、好きですけど……これ以上は、会社の荷物にはなりたくないです。」
「荷物なぞにならんよ、春。仕事はいくらでもあるんだ。デスクワークなら負担にならないだろう?」
「そう言ってくださると思いました。でも、先輩の無償の好意をいつか、ぼくの方が重荷に思うかもしれません。そんなことになったら、きっとすごく辛いです。何があっても、ぼくは自分の足で立っていたいですから」
「春」
「ぼくが頼りたくなった時に、先輩は傍に居そうだから駄目です」

やがて、滑るようにタクシーが止まった。

「ありがとう、先輩」
「春」
「じゃあ……」
「春――っ!」

閉じたタクシーのドアに向かって、悲痛に声をかけ呼び止めようとしたのは聡一の方だった。
タクシーのタイヤのチェーンがぎしと雪を踏みしめ、舞い降りたばかりの粉雪を散らせた。
どこか深い所に突き立っていた氷のとげが、今は溶解したのを感じる。

後部座席で振り向いた小さな春の顔が、遠くなってゆく。

笑っていた。
去ってゆく春は、ばいばいと聡一に向かって子どものように手を振り、幸せそうに笑っていた。



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