真夜中に降る雪 7
じっと見つめるのは、春美の好きな白球を追ってた頃の真っ直ぐな瞳だった。
行く手にフェンスがあっても、決して畏れず怯まずボールに飛びついていた野球少年。
どんなに望んでも、決して春美を見てはくれなかった。
振り向くことなく、ドアの向こうに消えた……
「ずっと、おまえのこと見ていたよ」
「嘘だ!」
嘘だと言い切られて、ほんの少し聡一の顔が曇った気がする。
「……高校のときからずっと見ていた。いつか春にきちんと謝って、本当の気持ちを伝えようと思っていたから。自意識過剰かな……俺を追って大学に入って来ただろう?初め春が入った大学の名前を聞いたとき、話ができると思った。学食でほうれん草を残したのも知ってるし、今住んでいるアパートの間取りも知っている。南向きに窓がある」
「信じない……」
「この間、ベランダでビール片手に、ふたご座の流星群を見ていた。彼女と別れたのも知っているし、同期の松前孝幸というやつが、おまえを好きなのも知ってる」
春美は呆れた。
確かに、孝幸が酒の席で冗談めかして大勢の前で好きだ~!と叫んだ事はあったが、どこまで知ってるんだ。
「それって、ストーカーじゃん……」
「ああ……そうかもしれないね。声をかける勇気がなかった。傷つけた春に、どの面下げて出てきたんだって言われるのが恐かった」
自分もずっとストーカーのように聡一の後を追ってきたくせに、そんな事はおくびにも出さなかった。
春美はきつい視線で、聡一を睨み付けたきり動かなかった。
聡一がその場に硬直した春美に向かって足を進めると、大きく腕を広げた。
「今も昔も、頑張りやさんだなぁ、春。尊敬するよ」
最後の一段を上がりきり、冷たい雪を踏み固めた上に脚を落とした。
凍った表面に足を取られ、転びそうになる。
「あっ!」
「春っ!」
凍りついた歩道橋の上で、足を滑らせた春美は聡一の腕の中に倒れこんだ。
厚いカシミアのコートが鼻先に当たった。
すっぽりと全身を預けて一瞬の儚い夢を見て、春美は聡一の腕から飛び離れた。
ここは自分の場所じゃない。
歩道橋の冷たいアルミの柵を掴んだ春美は、夕暮れの暗さに助けられて思わず叫んだ。
「信じない!先輩なんて信じない!家に帰れば奥さんも子供もいるくせに、もうぼくは二度とおもちゃになるのはいやだ!置いてきぼりにされて泣くのは、もうたくさんだ!」
それは、封じ込めてきた本心だった。
「春。言い訳だけでもさせてくれないか?」
「い……やだ。先輩は……いつだってぼくを置いてゆくんだ。振り向いてもくれないんだ」
ぼろぼろととめようもない涙の溢れる顔を向けて、春美は唇を振るわせた。
「あ、足が……痛い。足が……痛い……ああああぁあ~~ん……、足が痛い~~~……」
何年かぶりに聡一の目の前で春美は泣いた。
声を上げて子供のように、先輩に行かないで側にいてと縋ったあの日のように、春美は泣いた。
足のせいにして心に言いわけしておかなければ、内側の澱がふわりと立ち上ってきそうだった。
「ほら」
背中に乗れと聡一がしゃがみこんだ。
「嫌だ。今更、優しくしたって、信じない」
「信じたくなければそれでいいよ。会社の上司として、足を痛めた部下に手を貸す。それならどうだ?」
正直、もう一歩も動けなかった。
足は痺れ、限界が来ていた。
濡れた頬が、寒さで凍りつきそうだった。
強張った身体をぎこちなく預けた春美を、背負った影が長く伸びた。
静かに零れてゆく涙が、聡一の広い背中に吸われてゆく。
聡一の姿をずっと追ってきた春美は、気が付いていた。
時を経た以上に、どこか聡一には憂いがあった。
それは上手くいっていない結婚なのか、それとも……春美に思いを残していたという、嘘みたいな話が深く刻んだ苦悩だろうか。
「ぼくの家、こっちじゃありません」
「まだ酷く痛む?」
「ん……歩かなければ平気です。でも、マッサージしないと動けないです……」
「じゃあ、どこかコンビニで湿布を買ってゆこう。それから飯を食おう。な?」
聡一の声が、どこか弾んでいるような気がして思わず肩に縋る手に力を込めた。
今だけ……
今だけ……
ポケットの携帯が震えるのに気が付いたが、無視した。
誰からの着信か、開かなくても春美には分かった。
ごめん、孝幸。
きっと心配してる。
今だけ。
今だけだから……
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行く手にフェンスがあっても、決して畏れず怯まずボールに飛びついていた野球少年。
どんなに望んでも、決して春美を見てはくれなかった。
振り向くことなく、ドアの向こうに消えた……
「ずっと、おまえのこと見ていたよ」
「嘘だ!」
嘘だと言い切られて、ほんの少し聡一の顔が曇った気がする。
「……高校のときからずっと見ていた。いつか春にきちんと謝って、本当の気持ちを伝えようと思っていたから。自意識過剰かな……俺を追って大学に入って来ただろう?初め春が入った大学の名前を聞いたとき、話ができると思った。学食でほうれん草を残したのも知ってるし、今住んでいるアパートの間取りも知っている。南向きに窓がある」
「信じない……」
「この間、ベランダでビール片手に、ふたご座の流星群を見ていた。彼女と別れたのも知っているし、同期の松前孝幸というやつが、おまえを好きなのも知ってる」
春美は呆れた。
確かに、孝幸が酒の席で冗談めかして大勢の前で好きだ~!と叫んだ事はあったが、どこまで知ってるんだ。
「それって、ストーカーじゃん……」
「ああ……そうかもしれないね。声をかける勇気がなかった。傷つけた春に、どの面下げて出てきたんだって言われるのが恐かった」
自分もずっとストーカーのように聡一の後を追ってきたくせに、そんな事はおくびにも出さなかった。
春美はきつい視線で、聡一を睨み付けたきり動かなかった。
聡一がその場に硬直した春美に向かって足を進めると、大きく腕を広げた。
「今も昔も、頑張りやさんだなぁ、春。尊敬するよ」
最後の一段を上がりきり、冷たい雪を踏み固めた上に脚を落とした。
凍った表面に足を取られ、転びそうになる。
「あっ!」
「春っ!」
凍りついた歩道橋の上で、足を滑らせた春美は聡一の腕の中に倒れこんだ。
厚いカシミアのコートが鼻先に当たった。
すっぽりと全身を預けて一瞬の儚い夢を見て、春美は聡一の腕から飛び離れた。
ここは自分の場所じゃない。
歩道橋の冷たいアルミの柵を掴んだ春美は、夕暮れの暗さに助けられて思わず叫んだ。
「信じない!先輩なんて信じない!家に帰れば奥さんも子供もいるくせに、もうぼくは二度とおもちゃになるのはいやだ!置いてきぼりにされて泣くのは、もうたくさんだ!」
それは、封じ込めてきた本心だった。
「春。言い訳だけでもさせてくれないか?」
「い……やだ。先輩は……いつだってぼくを置いてゆくんだ。振り向いてもくれないんだ」
ぼろぼろととめようもない涙の溢れる顔を向けて、春美は唇を振るわせた。
「あ、足が……痛い。足が……痛い……ああああぁあ~~ん……、足が痛い~~~……」
何年かぶりに聡一の目の前で春美は泣いた。
声を上げて子供のように、先輩に行かないで側にいてと縋ったあの日のように、春美は泣いた。
足のせいにして心に言いわけしておかなければ、内側の澱がふわりと立ち上ってきそうだった。
「ほら」
背中に乗れと聡一がしゃがみこんだ。
「嫌だ。今更、優しくしたって、信じない」
「信じたくなければそれでいいよ。会社の上司として、足を痛めた部下に手を貸す。それならどうだ?」
正直、もう一歩も動けなかった。
足は痺れ、限界が来ていた。
濡れた頬が、寒さで凍りつきそうだった。
強張った身体をぎこちなく預けた春美を、背負った影が長く伸びた。
静かに零れてゆく涙が、聡一の広い背中に吸われてゆく。
聡一の姿をずっと追ってきた春美は、気が付いていた。
時を経た以上に、どこか聡一には憂いがあった。
それは上手くいっていない結婚なのか、それとも……春美に思いを残していたという、嘘みたいな話が深く刻んだ苦悩だろうか。
「ぼくの家、こっちじゃありません」
「まだ酷く痛む?」
「ん……歩かなければ平気です。でも、マッサージしないと動けないです……」
「じゃあ、どこかコンビニで湿布を買ってゆこう。それから飯を食おう。な?」
聡一の声が、どこか弾んでいるような気がして思わず肩に縋る手に力を込めた。
今だけ……
今だけ……
ポケットの携帯が震えるのに気が付いたが、無視した。
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きっと心配してる。
今だけ。
今だけだから……
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