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真夜中に降る雪 番外編 初めての春 

春美が自宅から離れた中高一貫校の試験を受けてみようと思ったのに、たいした理由など無かった。
その頃、何もかもつまらなかった。
見た目だけで自分を判断する周囲や、少し熱を出しただけで大騒ぎする祖父母もいやだった。
寮に入るほどの距離ではないし、通学するという理由で誰も知った人のいない学校の受験を許してもらった。

中等部の入試は、学科と面接だったがほとんど推薦入試のようなもので、これといって難解なものではなかった。
だが試験時、名前と性別の一致に試験管がしばらく逡巡し、いいにくそうに口にした。

「里中春美……はるみ……?」
「里中春美(さとなかはるよし)です!」

くすくすと、嘲笑めいたざわめきがさざ波のように寄せてくる。
おんなみてぇと、耳に入る小さな声がいたたまれなかった。
女みたいな名前も容姿も、珍しい生き物を見るような視線も、伸びてくる手もわずらわしかった。
ゲームのリセットボタンを押すような気持ちで、新しい学校を決めたのに結局どこもかも同じなのかとうんざりした。

ペットショップのふわふわした子うさぎを愛でるように、周囲は春美を愛した。
意思も行動も束縛される、檻の中の可愛いだけの愛玩動物。
いつしかそんなものに自分がなってしまうような気がする。
柔らかい真綿のような束縛が、いつも周囲にあった。

「あ~あ、やっぱり、どこも一緒かなぁ」

ぼんやりと、校庭裏から帰宅しようとして足元に転がってきたボールに気づいた。

「悪いな!投げてくれ!」

体育の時間に触ったソフトボールとは違う、一回りも小さな硬球に春美は戸惑っていた。
仕方なくボールを持って、声をかけてきたユニホームの少年に近づいた。

「あの、これ」
「サンキュ」

春先なのに、日に焼けた顔で人懐っこく笑う。
野球部らしく、一人壁に向かって投球練習をしているようだった。

「今日、入試日だっけ?球拾いがいなかったんだ。暇なら手伝ってくれ」
「え?球拾い?」

春美の見守る中、そこだけは色の変わったコンクリートの壁にひたすら少年はボールを投げ込んで行く。
黙々と投げる姿に、春美は見惚れていた。
気持ち良く空気を切って、ボールが白い軌跡を描く。
小一時間投げ込んだあと、二人でボールを拾った。
少し離れた場所から少年が、そっと下手投げでボールをよこしてくる。

「ほら。投げてみろよ」

キャッチボールなどしたことも無い春美の投げたボールは大きくそれて、外野方面にまで転がっていった。

「結構、飛んだなぁ」
「ごめんなさい」
「いいさ」

にこにこと笑う少年が話しかけてくるのを、春美は緊張しながら聞いた。

「入学したら、野球やらないか?」
「……やったことないです」
「誰でも始める前は、やったことないさ。俺は今度中三だけど、ここは部員少ないから野球は高等部も一緒に練習するんだ。卒業するまで教えてやるよ」
「ぼく、余り丈夫じゃなくて……。あの……たまに喘息とか出るし、運動はむいてないんです」

少年の笑顔がふっと消えた。

「なあ。そうやって逃げていたら、やったこと無いものいっぱいあるだろ?」

思わず驚いて、じっと見返してしまった。
里中春美は、何気なく零れて来たその言葉に惹かれた。
まるで全てを見通しているような、澄んだ瞳。
春美が欲しくてたまらなかった、筋肉の乗ったしなやかな肢体を持った年上の人。

小さな頃からサッカーも少林寺も、お友達と一緒にやってみたいというものはことごとく却下された。
プールは喘息にいいといって始めたものの、風邪気味のある日、発作が起きてプールで溺れかけて以来、運動は何もしていない。

「喘息なんて、肉食って体力つけて走ってたら治るって」
「まさか……そんな話、聞いたこと無いです」
「そうだろ?今、初めて言ったんだから」

労わるような目を向けるでもなく、誰もが賛辞を寄せる春美の秀麗な容姿には目もくれず、知り合った新入生を勧誘して笑っているに過ぎない。
この人といたら、これまでとは違う毎日になるかもしれない。
そう思うと思わず意思が口を付いて出た。

「先輩。ぼく、合格したら野球部に入りますから、教えてください。よろしくお願いします」
「お~、そうか。じゃあさ、名前教えてくれるか?」
「里中春美です。はるみと書いて、はるよしです。あのっ、春生まれだから」
「俺は、宮永聡一だ。よろしくな、春でいいか?」

何で、笑顔でこんな話をしているんだろうと思う。
ただ、普通の会話が出来るのが嬉しかった。

野球部在籍の少年は、春美よりも学年は2つ上だった。
ボールを片付けながら、ゆうに頭一つ高い少年が野球漫画を知っているかと聞いてきた。

「メジャーとかバッテリーとかですか?聞いた事はありますけど。」
「もう少し古いやつだ。ドカベンという、漫画があるんだ。その中に里中という投手が出てくる。そいつもちびだけど、プロ野球選手になっていつか「小さな巨人」と呼ばれるようになるんだ」

一瞬、笑いを消して春美の頬に手を伸ばした。
思わず、身構えたら両方の頬を引っ張られた。

「がんばれよ。里中。野球やってればわかる。こうやって投げ込みすると、体幹が鍛えられて腰がぐらつかなくなるんだ。きっと体力だけは付く」
「はい」
「一緒に野球できたら、楽しいぞ。ここで、待ってるからな」
「はいっ!」

本当のことを言うとメンバーが足りないから、入ってくれると助かるんだと笑った。
初めて会った先輩なのに、日々に苛立つ心を、深く見透かされたような気がした。

宮永聡一との出会いはそんな風だった。
里中春美が初めて会った日の気持ちが、恋だと気が付くのはもっと先の話だ。

合格発表当日。

前日に担任から、合格を教えられていた春美には掲示板を見に行く必要は無かった。
それでも、あえて一人で学校に向かった。
家族には反対されたが、野球部に入ると宣言してあった。

入部してからは、くたくたになりながらも、充実の日々だった。
春美は何度か熱を出したりしながら、誰よりも一生懸命、練習した。
同じユニホームに袖を通しても、まるで女の子のような線の細い春美の事は、みんなが馬鹿にして「女子マネ」と呼ぶ。
いつか当たり前のように、雑用係になっていた。

だが、それを聞いた聡一が、部室に全部員を集め、仁王立ちした。

「一番練習熱心なやつを、何でマネージャー呼ばわりして雑用をやらせるんだ?お前らの中で、入部からこっち、一番上達したのはあいつだぞ」
「だって、レベルが……」
「俺は、春がどれだけがんばったかの話をしているんだ!」

周囲は、聡一に気おされている。
確かに、まともにキャッチボールすら出来なかった春美が、日々の遠投の練習で取りこぼさなくなったのは誰もが知っている。
ボールを後逸しないように体で受け止めて、あちこち痣だらけだった。
手のひらを向ければ、チームの中で一番小さな白い手に、いくつもの血豆がつぶれて硬くなっている。

「今後、春を女子マネって呼んだやつは丸坊主!いいな」

一斉に分かりましたと、新入生は声をそろえ用具を片付けに走ったが、春美はその場にうずくまった。
宮永が認めてくれたのが嬉しかった。

「春?」
「す、すみません。せんぱ……ぃ。何か……嬉しくて」
「俺は、まともなことしか言ってないぞ。お、おい、春」
「ああぁ……ん」

いじらしい後輩に、思わず聡一の頬も緩む。
出来ないながらも懸命に後を追ってくる、春美が愛おしかった。
まともにボールも投げられなかったくせに、今はぎこちないがスライディングさえ出来るようになった。

「春。小さな巨人になるんだろう?」

春美はその言葉に涙が止まらなくなり、宮永聡一の胸で泣きじゃくり、やがて聡一は無骨な手で春の顔をそっと挟んだ。

「春は、泣き虫だなぁ」

そういうと、聡一の唇が、そっと春美の頬に触れ唇を掠めた。
見開いたままの、春美の双眸から驚くほどの涙が堰を切ったように溢れ出た。

「馬鹿にしたんじゃないぞ、春。頑張ってるって褒めてるんだぞ」
「はい……」
「困ったなぁ……春。可愛くてたまらない」
「せんぱ……ぃ」

ふわりと薄い影が重なった。

初めて、キスをした。
初めて、恋をした。

大好きで大嫌いな先輩、宮永聡一と里中春美の「はじめて」だった。



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