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明けない夜の向こう側 第三章 15 

鳴澤は手術室の前に置かれた長椅子に座り、表示灯を見つめていた。

「郁人……」

手術中……赤いその灯を見つめていると、東京大空襲の炎が瞼の裏で揺らめいた。
天上まで昇る赤龍が、地上を嘗め尽くし見渡す限り火の粉を降らせる。
誰もかれも、空を仰ぎ見て絶望に慟哭した。

まだ深川が戦禍に遭っていないころ、鳴澤は美代吉という芸者を愛人として囲っていた。
本名を吉永美代子と言った。
出会った頃、本妻は線が細く、生まれた子供も身体が弱いんだと打ち明けたら、彼女は悲し気に「人生には色々ありますよ」と、微笑んだ。

「神様がいるのかいないのか、あたしには良く分かりませんけど、その人に耐えられない悲しみは与えない……という話を聞いたことがありますよ。今は、どれほど悲しくても、きっといつかは、そんなこともあったと笑って話せるようになるんでしょうよ」

「そうか。君にも悲しいことがあったかい?」

「ええ……でも、酒席で野暮な話は言いっこなし。折角おいしいお酒をご持参下すったんですから、まずは一献。さ、どうぞ」

日本中が飢えている中で、軍上層部と付き合いのある鳴澤の酒席には、常に贅沢なものが並んでいた。
花街に身を置く彼女に、何か過去があるのだろうと推測はしたものの、深く詮索をしたことはない。
それが正しい客と芸者の付き合い方と心得ていた。

妻がみまかった時も、長女を亡くした時も、美代吉は黙って傍に居て寄り添ってくれた。
いつしか深い関係になった美代吉が、どれだけ心の支えになったかもしれない。
彼女の言葉は常に鳴澤の内側に深く染み込み、いつかなくてはならない存在になっていた。

二つ身になったばかりの美代吉を、産院に訪ねて、鳴澤は乞うた。

「鳴澤の籍に入ってくれないか?傍に居て欲しいんだ」

「あら……お寂しいんですか?こんな大きななりをして」

向ける笑顔に、嫌ではないのだろうと見当をつける。
だが、鳴澤には美代吉に傍に居て欲しいと思う前に、気が急くあまりどうしても郁人の為に子供が欲しいんだと口にしてしまった。
もっと時間をかけて、一緒に暮らす中で打ち明けたなら、違った答えを貰えたのかもしれなかった。

「どういうことですか?」

慎重に話すべき時期を間違えてしまった鳴澤に、美代吉は気色ばんだ。

「以前、妻の腎臓を娘に植えたんだ。だが身体が弱かったせいか、うまく定着しなかった。無理をした妻も結局、もたなかった。今は健康に過ごしている生まれたばかりの長男が同じ病気になったら、同じように近親間での手術が必要になるだろうと、義弟の医者に言われたんだ。だから、わたしは健康な子供が欲しいと思っている」

「……するってぇと、あたしが必要なのではなく、あたしの子供が欲しいと鳴澤さまはおっしゃるのですね。下手すりゃ、あたしも子供もどうなっていい、跡継ぎの郁人さんに使う腎臓があれば良いってことなんでしょう?あたしはとんだ見当違いをしていたようですよ」

「いや、違う。そうではないんだ。、もう一度、家庭を作りたいというのは本当だ。頼む、美代吉。話を聞いてくれ」

「言い訳を聞く耳なんざありませんよ。この子はあたしの子だよ。例え、どれだけお金を積まれても、渡す気はありません。お帰りくださいな」

「美代吉」

気風の良い深川芸者が、夜着の上に羽織った黒絵羽織の襟をぐいと引き寄せ、啖呵を切った。




本日もお読みいただきありがとうございます。
少しだけ横道して、陸の母のお話です。

透析患者さんに話を聞いたり、色々、調べながら書いておりますが、腎臓透析初期の頃の設定なので、あやふやなところも多いです。
なので、あくまでもこのお話はフィクション……という事でお願いします。

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