明けない夜の向こう側 第三章 16
「此度の落籍(身請け)の話は、なかった事にしてくださいな。子供はあたし一人で育てます。鳴澤様には何の関係もありません。どうかお引き取りください。そして、もう二度とお越しにならないでください。お目にかかることももうありません」
「そんな……」
「痩せても枯れてもこちとら、辰巳芸者だ。惚れたはれたで気持ちが動いても、札束で頬を張られて、はいそうですかとお腹を痛めて生んだ我が子を、他人に差し出すような女じゃないんだよ」
「そうじゃないんだ。子供をどうこうするつもりはない。わたしの言い方が悪かった」
「誰か、いないかい」
お産の付き添いに来ていた置屋の女将が、激しい剣幕に驚いて、宥めようとしたが美代吉の激昂は収まらなかった。
「ちょいと。一体、どうしたってんだ。美代吉、落ち着きな。鳴澤様に向かって、なんという口のききようだい」
「いいんだよ。もうあたしには何の関わりもないお方だ。おっかさん!いいから、塩だよ、塩!早く撒いとくれ!」
「美代吉……」
女将はおろおろとするばかりだった。
「すみません。鳴澤様。美代吉が何でこんなに取り乱しているのか……産後は気鬱になることも多いそうですから、気にしないでおくんなさい。落ち着いたら、ちゃんと言って聞かせますから」
「……いえ。わたしが彼女が怒るような事を言ったんです。わたしが愚かだったんです。一旦帰ります。どうか、体をいたわるように言ってください。これは、当面の子供と美代吉さんの生活費です」
「まあ、こんなにお心遣いいただいて。美代吉ったら、本当にもう……罰が当たりますよ。お腹の子供と美代吉は、あたしが責任をもって、きちんとお預かりいたしますから」
置屋の女将はきっぱりと言い切ったが、美代吉はそれきりどれほど宥めても透かしても、頑固に鳴澤と会おうとはしなかった。
美代吉にも、腹の子供を鳴澤の子だと嘘をついていた負い目もあった。
本当に愛し始めていたからこそ、尚更、鳴澤の秘めていた魂胆と、自分がついた嘘が許せなかった。
腹の子を自分の子だと信じて、重い話を打ち明けた鳴澤に申し訳ないと思った。
どれ程子供を愛しているか、自分と生まれた子供を大切に思ってくれているか、一途でひたむきな鳴澤の愛情に打ちのめされていた。
鳴澤は、何度も足を運び美代吉に会おうとしたが叶わなかった。
美代吉は居留守を使って、子供を抱えて押し入れにこもったり屋根に駆け上がって隠れたりした。
鳴澤の方は、美代吉に養育費の名目で、毎月多額の金を送り続けた。
それが鳴澤の、精一杯の誠意の形だった。
空襲が酷くなりはじめた頃も、つてをたどり二人の疎開先を探してやったが、深川の地を離れる気はないと、きっぱりと断られた。
不器用な鳴澤の気持ちが、美代吉に届かなかったわけではない。
互いに思いがすれ違っていただけだったのだが、時代の運の悪さも重なった。
数年後、諦めきれない鳴澤が、弁護士を伴って置屋を訪ねた日、美代吉は幼い陸の手を引いて、勝手口から逃げ出した。
子供を取り上げられまいとして、彼女なりに必死だった。
自分の裏切りが露見するのも怖かった。
父の後妻と折り合いが悪く、家を出たまま音信不通にしていた実家が兵庫にあり、上野からそこを頼って行くつもりだった。
そして、その日深川が大空襲に遭った。
親代わりとして、自分の事を親身に考えてくれた、置屋の女将は、そのころ足がすっかり弱くなって自力では歩行もできないようになっていた。
美代吉は、必死になって逃げ急ぐ人を捕まえた。
「どこから来たんですか?深川はどんな様子なんです?」
「深川は、もうお終めぇだよ。おれたちは、皆あっちから流れて来たんだ。焼夷弾がばらばら降って来て、どこもかも火の海だ」
逃げ惑う人々が、口々に深川が空襲に遭って燃えていると教えてくれた。
「おじさん。木場は?材木問屋は?」
「深川はもうだめだ。知り合いがいるんだったら、かわいそうだが諦めた方が良い。ここまで逃げるのだって命からがらだ。戻るんじゃねぇぞ」
「そんな……女将さんっ!」
居てもたってもいられなくなった美代吉は、親代わりの女将を助けに行こうと決心する。
「いいかい、陸。良い子だからここでしばらく待っておいで。おっかさんは、女将さんを連れて戻ってくる。一人で待てるかい?」
「う……ん」
「陸が一緒だと、女将さんをおぶえないだろ?あたしの力じゃ、二人は背負えない。ごめんよ、陸。きっと帰ってくるからね。ここにいるんだよ。いいね」
小さな陸はこくりと頷き、人波に抗ってゆく母を見送った。
しんと冷える夜が来て、陽が上っても陸の母は帰ってこなかった。
次の日も、次の日も、陸はそこに座ってじっと母を待った。
小さな国民服のポケットに入っていた乾パンをかじって、陸は大きな目を母が駆けて行った方へ向けていた。
遠くから自分を迎えに走ってくる、母の姿をすぐに見つけられるように。
何とか手に入れた大阪行きの切符を、陸の小さな手に握らせて、母はそれきり帰らぬ人となった。
本日もお読みいただきありがとうございます。
陸が上野で櫂に出会ったのには、こんなことがあったからなのでした。(´・ω・`)
透析患者さんに話を聞いたり、色々、調べながら書いておりますが、腎臓透析初期の頃の設定なので、あやふやなところも多いです。
なので、あくまでもこのお話はフィクション……という事でお願いします。
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