びいどろ時舟 35
しばらく新と過ごした鏡は、着物の尻をさっと払うと空の重箱を手に立ち上がった。
「そいじゃあ、またね。新さん。いつか、どこかで会ゆっとね。」
明るい口調で言いながら、どこか薄々悲しげで、永の別れを感じさせるような寂しい風情の鏡だった。らした瞳が濡れているのを新は見た。
鏡は生まれてこの方、長崎丸山遊郭から一歩も出たことのない。姉と一緒とは言えいきなり下ったお沙汰で、国外追放の憂き目に遭う理不尽さに不安で押しつぶされそうになっている・・・と、思った。
決して弱音を漏らさないが、先の見えない怖さを幼い時から知っているだけに、箱庭のような廓を出てゆくのがどうしようもなく心細くてたまらないのだろう。
まだ、近くに来ると怖い大きな阿蘭陀人の中に混じって、まるで罪人のように混血児は、容赦なく見知らぬ異国に送られる。
「ああ。またな、鏡坊。」
*******
旅立ちの朝。
奉行所の役人は、去り行く女達に憐憫の情を向けたが、見送りするものは少なかった。
島原の乱に加勢して、幕府と唯一付き合いのある阿蘭陀人でさえ、貿易に直接関わりのないものは皆遠ざけられた。
柳行李と風呂敷包み一つ、皆少ない荷物を抱え船に乗り込んだ。
混血児ごとに行き先も違う。
葡萄牙(ポルトガル)人はマカオへ。
阿蘭陀(オランダ]人はパタヴィアへ・・・
千歳と鏡はパタヴィアへ向かう船に乗り込んだ。
鎖国令は、何度も改良され、幼い島国の御定法はますます厳しくなってゆく。
二度と踏むことの無い地に別れを告げて、父の国の衣類を身に付け、鏡は船上の人になった。甲板に足を落とし、良い目は何もなかった故郷を目に焼き付けた。
「鏡太郎さん。忘れものはないですか?」
「なかよ。荷物ゆうても・・こいだけやもん。」
長い旅の間、船の中で学ぶといいと言って、父が鏡のために王(わん)と言う名の唐人の通詞を雇ってくれた。彼は数か国語を話せるのだと言う。
鏡は、船に乗り込む王の腕の中に、ほんの小さな子供を認め喜んだ。商館勤めの長い弁髪の唐人の混血児は、自分の子だと言って小さな子供を抱いている。腹が空いているのか、まだ乳がいるような幼さに見えた。
日本人妻は先にパタヴィアに送られて、向こうで子供と夫が来るのを首を長くして待っているのだと言う。
「鏡さん、子守をさせてしまって、どうもすみません。どうにも機嫌が取れなくて。」
ぐずる子どもをあやして甲板に居た鏡に、王(わん)がすまなさそうに頭を下げた。
雇った乳母は同道が許されず、若い父親は、幼子の扱いに困り果てていた。通詞の勉強をするつもりが、とてもそれどころではなかった。
「さあ。お母(か)しゃまに、もうすぐ会えるっとよぉ。楽しみたいねぇ。」
鏡の膝の上で、子どもはきゃっと声を上げて跳ねた。
船の中では、母のない子に飲ませる乳も粥も満足になく、王は薄い重湯を温めて貰って来た。
「鏡ちゃん。代わろうか。」
千歳が抱き上げて、木匙でゆっくり少しずつ飲ませた。
「ほら。鏡ちゃんも、こうやって食べたとよ。おまんま、おいしかねぇ。」
薄桃色の柔らかい頬を、鏡は愛しむようにつついた。覗き込んだ赤子の黒い目が、鏡に向かって細くなる。
「もう少ししたら、滋養のある牛の乳を貰おうね。吉しゃん。」
この子の名前を問うと、父親は小吉だといった。
「小吉・・・吉しゃんね!」そう聞いた時、鏡はすごく喜んで、以来やたら面倒を見たがった。
小吉もすぐになついて、父の腕に抱かれるよりも、鏡の胸の中のほうが居心地が良いようだ。くんと、甘い子供の乳の匂いを嗅ぐ。
「なんでやろう・・・あしはこん子が、吉しゃんの生まれ変わりのような気がするっと。」
「そう、思うてもよかかなぁ。ねぇ、吉しゃん・・・。ああ、可愛かねぇ。」
膝の上で、かぴたんに貰った大きな万華鏡をくるくる回して、小吉に覗かせた。
「おれ星(流れ星)のごと綺麗かねぇ、吉しゃん。」
動きやすい西洋風の衣服は、混血の鏡に良く似合っている。ぴったりと足に張り付いた洋袴にも鏡は不思議とすぐに慣れた。
紐ではなく、いくつもの釦(ボタン)を、ボタン穴にぎこちなくはめて行く。
少年らしい長い手足も伸び伸びとして、旅立ちの前に、商館の理髪師が、鳶色の髪も父親のように短く刈り上げていた。
混血児特有の雪白の肌は、艶やかに輝いていた。
飽きもせず、小吉は熱心に万華鏡を覗く。
柏手もポチもありがとうございます。
励みになりますので、応援よろしくお願いします。
コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
「そいじゃあ、またね。新さん。いつか、どこかで会ゆっとね。」
明るい口調で言いながら、どこか薄々悲しげで、永の別れを感じさせるような寂しい風情の鏡だった。らした瞳が濡れているのを新は見た。
鏡は生まれてこの方、長崎丸山遊郭から一歩も出たことのない。姉と一緒とは言えいきなり下ったお沙汰で、国外追放の憂き目に遭う理不尽さに不安で押しつぶされそうになっている・・・と、思った。
決して弱音を漏らさないが、先の見えない怖さを幼い時から知っているだけに、箱庭のような廓を出てゆくのがどうしようもなく心細くてたまらないのだろう。
まだ、近くに来ると怖い大きな阿蘭陀人の中に混じって、まるで罪人のように混血児は、容赦なく見知らぬ異国に送られる。
「ああ。またな、鏡坊。」
*******
旅立ちの朝。
奉行所の役人は、去り行く女達に憐憫の情を向けたが、見送りするものは少なかった。
島原の乱に加勢して、幕府と唯一付き合いのある阿蘭陀人でさえ、貿易に直接関わりのないものは皆遠ざけられた。
柳行李と風呂敷包み一つ、皆少ない荷物を抱え船に乗り込んだ。
混血児ごとに行き先も違う。
葡萄牙(ポルトガル)人はマカオへ。
阿蘭陀(オランダ]人はパタヴィアへ・・・
千歳と鏡はパタヴィアへ向かう船に乗り込んだ。
鎖国令は、何度も改良され、幼い島国の御定法はますます厳しくなってゆく。
二度と踏むことの無い地に別れを告げて、父の国の衣類を身に付け、鏡は船上の人になった。甲板に足を落とし、良い目は何もなかった故郷を目に焼き付けた。
「鏡太郎さん。忘れものはないですか?」
「なかよ。荷物ゆうても・・こいだけやもん。」
長い旅の間、船の中で学ぶといいと言って、父が鏡のために王(わん)と言う名の唐人の通詞を雇ってくれた。彼は数か国語を話せるのだと言う。
鏡は、船に乗り込む王の腕の中に、ほんの小さな子供を認め喜んだ。商館勤めの長い弁髪の唐人の混血児は、自分の子だと言って小さな子供を抱いている。腹が空いているのか、まだ乳がいるような幼さに見えた。
日本人妻は先にパタヴィアに送られて、向こうで子供と夫が来るのを首を長くして待っているのだと言う。
「鏡さん、子守をさせてしまって、どうもすみません。どうにも機嫌が取れなくて。」
ぐずる子どもをあやして甲板に居た鏡に、王(わん)がすまなさそうに頭を下げた。
雇った乳母は同道が許されず、若い父親は、幼子の扱いに困り果てていた。通詞の勉強をするつもりが、とてもそれどころではなかった。
「さあ。お母(か)しゃまに、もうすぐ会えるっとよぉ。楽しみたいねぇ。」
鏡の膝の上で、子どもはきゃっと声を上げて跳ねた。
船の中では、母のない子に飲ませる乳も粥も満足になく、王は薄い重湯を温めて貰って来た。
「鏡ちゃん。代わろうか。」
千歳が抱き上げて、木匙でゆっくり少しずつ飲ませた。
「ほら。鏡ちゃんも、こうやって食べたとよ。おまんま、おいしかねぇ。」
薄桃色の柔らかい頬を、鏡は愛しむようにつついた。覗き込んだ赤子の黒い目が、鏡に向かって細くなる。
「もう少ししたら、滋養のある牛の乳を貰おうね。吉しゃん。」
この子の名前を問うと、父親は小吉だといった。
「小吉・・・吉しゃんね!」そう聞いた時、鏡はすごく喜んで、以来やたら面倒を見たがった。
小吉もすぐになついて、父の腕に抱かれるよりも、鏡の胸の中のほうが居心地が良いようだ。くんと、甘い子供の乳の匂いを嗅ぐ。
「なんでやろう・・・あしはこん子が、吉しゃんの生まれ変わりのような気がするっと。」
「そう、思うてもよかかなぁ。ねぇ、吉しゃん・・・。ああ、可愛かねぇ。」
膝の上で、かぴたんに貰った大きな万華鏡をくるくる回して、小吉に覗かせた。
「おれ星(流れ星)のごと綺麗かねぇ、吉しゃん。」
動きやすい西洋風の衣服は、混血の鏡に良く似合っている。ぴったりと足に張り付いた洋袴にも鏡は不思議とすぐに慣れた。
紐ではなく、いくつもの釦(ボタン)を、ボタン穴にぎこちなくはめて行く。
少年らしい長い手足も伸び伸びとして、旅立ちの前に、商館の理髪師が、鳶色の髪も父親のように短く刈り上げていた。
混血児特有の雪白の肌は、艶やかに輝いていた。
飽きもせず、小吉は熱心に万華鏡を覗く。
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