びいどろ時舟 36
不意に高波が寄せて、船は大きく傾いた。
船室に入ろうと鏡が小吉を抱き上げた時、船が大きく傾き万華鏡が転がった。
小吉は「あっ!」と叫んで、万華鏡を追いかけようとしたが、足を滑らせた。そのまま傾いた甲板を状箱のように滑ってゆき、ロープの山に当たってバランスを崩した。
這う方が早いような歩きはじめたばかりの赤子は、必死に鏡の元へ膝這いで来ようとしたが傾斜した甲板の上で平衡さえ取れず、何度も転んだ。
しっかりと胸に万華鏡を抱きしめていた。
今にも手すりの間から船の外へと、投げ出されそうになっている。
「吉しゃん!早うっ!」
鏡は追いついて片手で小吉を抱えたが、今度は打ち付ける横波で船は傾きが酷くなる。
左側に大きくへさきがぶれ、船の傾きが元に戻った反動で、投げ出された鏡は足場を失った。
「あーーっ!吉しゃんっ!」
誰かが大声で座礁だと叫んでいた。
赤子を抱えた鏡は、右腕一本で、傾いた船のヘリに辛うじてぶら下がっている。
「くっ・・・!」
体がゆらゆらと振れ、重みは腕に全て片腕に掛かる。
筋が張り切って、風にあおられて、このまま木の葉のように舞い落ちてしまいそうだ。
「だれか・・・気が付いてくれ・・・んね・・・。」
誰も自分のことと家族の安否を気遣うのに懸命で、今にも海に投げ出されそうな赤子と少年に気付くものは居ない。
ざっぱんと打ち寄せる波飛沫が、細い鉄柵を滑らせた。
「ぁあ~ん・・・あ~ん・・・」
冷たいしぶきに驚いて、胸の小吉が泣く。
「・・なっ・・・泣かんで、吉しゃん・・。お父しゃまが、もうすぐ来なさる・・・っと。」
自分の重みすら支えかねたが、鏡はしばらく堪えた。助けられなかった友人の吉を、今度こそ助けたいと鏡は必死だった。
だが風は弱まるどころか、横から身体を持って行きそうに強くなるばかりだ。
「あぁ・・・いけん・・・いけん。吉しゃんが・・・。」
このままだと、二人して海に飲まれてしまう・・・。
右腕の感覚はとうになく、赤子の小吉が重石のようだ。とても、大声を出して人を呼べる状況ではなかった。
「千歳姉しゃまぁ・・・あし、もう駄目かもしれん・・・」
「あぁ、そうだ。新さん、天神様ぁ・・・」
思わず、心で祈った。
(天神様ぁ、吉しゃんを助けてくれんね。)
(やっぱり、新さんと指きりば、しとけばよかった・・・かなぁ。)
泣き縋る小吉を、手放すまいともう一度、渾身の力を腕に込めた。
船べりから、覗いた王の叫ぶ声が聞こえた。
「ああっ!鏡さん!」
手放しかけた意識を奮い起こして、鏡は叫んだ。
「早う・・・っ、早う、吉しゃんを!」
ありったけの残りの力を振り絞って、左手で抱いた赤子を引き上げようとする。
王の伸ばす手が、もう少しで赤子に届く。
その時、思いもかけない恵みの高波が、鏡の足元から吹き上げた。
寄せた波の勢いで、赤子は父親の手に渡り、引く潮は容赦なく鏡を船べりから奪う。
「ぅあーーーーっっ・・・」
鉄棒を掴んでいた指がゆるとほどけて、鏡は右腕を王に向けて伸ばしたまま、垂直に海面へと落下した。
吸い込まれるように落ちてゆく鏡の丸い瞳が、手を伸ばす王を見つめていた。
「・・・鏡坊―――っ!!」
船べりからもぎ取られて、白い波頭に飲まれる瞬間、「鏡坊」と叫んだ王の声に目を瞠ったようだったがものを言う間も無く、あっという間に鏡は沈んで見えなくなった。
「鏡坊ーーっっ!!」
胸に小吉を抱き、狂ったように主の名を呼ぶ唐人の姿は、やがて少しずつ輪郭をなくし薄くなってゆく。鏡を鏡坊と呼ぶのは、広い円山でたった一人だけだった。
いつしか、暮れなずむ辺りの空気が、薄墨のように滲んだ希薄な姿を飲み込んだ。
甲板に残された小吉を、船底から這い上がってきた千歳が見つけて抱き上げたが、傾いた船のどこを捜しても鏡の姿は見えなかった。
濡れる頬を、海風がなぶる。
「鏡ちゃん、どこね?・・・吉しゃん、鏡ば知らんとね。」
「鏡ちゃん・・・ほら、もうまたパタヴィアが見えるとよぉ・・鏡ちゃん・・・。姉しゃまば、ひとりにせんでよぉ・・・。」
父に贈られた靴が持ち主をなくして、片方ころりと甲板に転がっていた。
「鏡ちゃあーーーーん・・・・」
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