びいどろ時舟 31
父親が出島に着任してからと言うもの、忘八女将は人が変わったように優しくなってしまって、鏡は少し混乱していた。
今朝も山ほど風呂用の薪を割った後、そっと顔色を覗いながら、父に逢う時間を貰ってもいいかと訪ねた所、二つ返事で快諾する。
「一時ばかりですぐに、帰りますけん。」
「いいよ、いいよ。父親に会うのに遠慮なんざしなくていいから、いっといで。」
「あい。ありがとぉ・・・。」
思いがけない言葉に、これまで散々理不尽な目に遭わされてきた鏡の目が、驚きで丸くなる・・・。実際は裏で父が手を尽くしてくれていたのだが、鏡はそのことを知らなかった。
これも天神様のご利益なのかしらと、少し考えてみて、そう思った自分にくすりと笑った。
男衆に格上げになった鏡は、髪結いの新さんにも用があったのだが、今までと違って、表の仕事が多くなると、裏方衆には中々逢えないでいた。
夕方時分になると、新さんは古い歌を歌いながら道具箱を提げて、水月楼の抱え太夫衆の髪を結いにやってくる。粋な着流しで、腕も性分も良く、太夫衆に引っ張りだこだった。
だが、どこに住んでいるか豆腐売りの棒手振りに聞いてみても、不思議と誰も知っているものはない。
唐人屋敷に住んでいるんじゃないかとか、平戸から通ってくるらしいとか、姉さん達は色々不確かな噂をしているが、どれも本当とは思えない。
鏡には、一つだけ腑に落ちないことが有り、それを確かめたかった。
父のところへ行く前、ふいにそうだと思いつき、坂ノ下の天神様の裏に行ってみた。
人気の無い身代わり天神のお堂の向こう、昼でも薄暗い樹木の影に、見覚えのある横顔がある。
やっぱり、思ったとおりだったと、鏡は内心確信を得た。
「新さん。」
「お・・・っと!?」
一瞬、どきりとしたような顔を向けて、すぐに笑顔になった。
「こんな所まで、お使いかい?鏡坊。」
「新さんに、用があるっとよ。」
「どうしたんだえ?そろそろ、髪でも結うかい?」
「まだ、結うほど伸びんもん・・・。」
後頭で括った髪は、まだ短くてぱらぱらと落ちてきて、髷を結うには短すぎた。
くわいの芽のように「くわい髷」に縛ってはみたが、唐人の子どものようにしか見えず、結局、元通り禿のように下ろすしかなかった。
「新さんに、一つ聞きたかことが、あるっと。」
新は、辺りの石の上に腰掛けて動揺を抑え、鏡の顔をまじまじと眺めた。
「聞きたいこと?」
「あのね。かぴたんさんの顔が、違うっとよ。」
新は一瞬しまった・・・と、言う表情を浮かべ、鏡はつと側によると、耳元に囁いた。
「誰にも、言わんけん。ほんとのことば言うてくれんね・・・新さんは、天神様のお使いばいね?」
「天神様の使い・・・?あっしが?何故、そんな風に?」
どこをどうすれば、そんな話になるのか不思議だったが、とりあえず話を聞くことにした。
「お父(と)しゃまと、かぴたんさんに呼ばれて会うたとよ。金色の綺麗か髪は同じやっとけど、あしに優しゅうしてくれたかぴたんさんとは、目の色が違うもん。青い海の色やったと。」
異国人に、唐人と朝鮮人と日本人の区別がつかないように、鏡に区別がつくはずがないと思い、そのままにしておいたのがまずかった。
そういえば、セマノと阿蘭陀商館長とでは、見た目の年齢も激しく違う・・・。
「身代わり天神様は、あしを助けてくれたんやろう?」
「そうだな。だったら、どうする?」
鏡の目が真剣だった。首から細い紐に通した、指輪を引っ張り出した。
「こいをねぇ、天神様に渡してくれんね・・?こん、いびがね(指輪)は、死んでしもうた異人さんの家の人が、お礼にってくれたとよ。姉しゃまが、こいはあしの物にしときんしゃいって。」
天神様に助けてもらったお礼をしたいのだと、鏡は一生懸命に言う。
「うんと考えて、気が付いたとよ。天神様は、あしの胸の痛かのも直してくれたったいね?
帰ってから、なんも苦しゅうなかもん。」
どこまで覚えているか分からなかったが、異世界の記憶をぼんやり持っているようだった。
「でも、これは鏡坊が持っているほうが、良いんじゃないか?これは、すごく高価なものだよ。」
金子に換えれば、ある程度まとまったものになるだろう。
武器商人の身内が届けた指輪は、古い細工物で、どこかの王侯貴族の持ち物のように、豪奢に手が込んでいた。
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今朝も山ほど風呂用の薪を割った後、そっと顔色を覗いながら、父に逢う時間を貰ってもいいかと訪ねた所、二つ返事で快諾する。
「一時ばかりですぐに、帰りますけん。」
「いいよ、いいよ。父親に会うのに遠慮なんざしなくていいから、いっといで。」
「あい。ありがとぉ・・・。」
思いがけない言葉に、これまで散々理不尽な目に遭わされてきた鏡の目が、驚きで丸くなる・・・。実際は裏で父が手を尽くしてくれていたのだが、鏡はそのことを知らなかった。
これも天神様のご利益なのかしらと、少し考えてみて、そう思った自分にくすりと笑った。
男衆に格上げになった鏡は、髪結いの新さんにも用があったのだが、今までと違って、表の仕事が多くなると、裏方衆には中々逢えないでいた。
夕方時分になると、新さんは古い歌を歌いながら道具箱を提げて、水月楼の抱え太夫衆の髪を結いにやってくる。粋な着流しで、腕も性分も良く、太夫衆に引っ張りだこだった。
だが、どこに住んでいるか豆腐売りの棒手振りに聞いてみても、不思議と誰も知っているものはない。
唐人屋敷に住んでいるんじゃないかとか、平戸から通ってくるらしいとか、姉さん達は色々不確かな噂をしているが、どれも本当とは思えない。
鏡には、一つだけ腑に落ちないことが有り、それを確かめたかった。
父のところへ行く前、ふいにそうだと思いつき、坂ノ下の天神様の裏に行ってみた。
人気の無い身代わり天神のお堂の向こう、昼でも薄暗い樹木の影に、見覚えのある横顔がある。
やっぱり、思ったとおりだったと、鏡は内心確信を得た。
「新さん。」
「お・・・っと!?」
一瞬、どきりとしたような顔を向けて、すぐに笑顔になった。
「こんな所まで、お使いかい?鏡坊。」
「新さんに、用があるっとよ。」
「どうしたんだえ?そろそろ、髪でも結うかい?」
「まだ、結うほど伸びんもん・・・。」
後頭で括った髪は、まだ短くてぱらぱらと落ちてきて、髷を結うには短すぎた。
くわいの芽のように「くわい髷」に縛ってはみたが、唐人の子どものようにしか見えず、結局、元通り禿のように下ろすしかなかった。
「新さんに、一つ聞きたかことが、あるっと。」
新は、辺りの石の上に腰掛けて動揺を抑え、鏡の顔をまじまじと眺めた。
「聞きたいこと?」
「あのね。かぴたんさんの顔が、違うっとよ。」
新は一瞬しまった・・・と、言う表情を浮かべ、鏡はつと側によると、耳元に囁いた。
「誰にも、言わんけん。ほんとのことば言うてくれんね・・・新さんは、天神様のお使いばいね?」
「天神様の使い・・・?あっしが?何故、そんな風に?」
どこをどうすれば、そんな話になるのか不思議だったが、とりあえず話を聞くことにした。
「お父(と)しゃまと、かぴたんさんに呼ばれて会うたとよ。金色の綺麗か髪は同じやっとけど、あしに優しゅうしてくれたかぴたんさんとは、目の色が違うもん。青い海の色やったと。」
異国人に、唐人と朝鮮人と日本人の区別がつかないように、鏡に区別がつくはずがないと思い、そのままにしておいたのがまずかった。
そういえば、セマノと阿蘭陀商館長とでは、見た目の年齢も激しく違う・・・。
「身代わり天神様は、あしを助けてくれたんやろう?」
「そうだな。だったら、どうする?」
鏡の目が真剣だった。首から細い紐に通した、指輪を引っ張り出した。
「こいをねぇ、天神様に渡してくれんね・・?こん、いびがね(指輪)は、死んでしもうた異人さんの家の人が、お礼にってくれたとよ。姉しゃまが、こいはあしの物にしときんしゃいって。」
天神様に助けてもらったお礼をしたいのだと、鏡は一生懸命に言う。
「うんと考えて、気が付いたとよ。天神様は、あしの胸の痛かのも直してくれたったいね?
帰ってから、なんも苦しゅうなかもん。」
どこまで覚えているか分からなかったが、異世界の記憶をぼんやり持っているようだった。
「でも、これは鏡坊が持っているほうが、良いんじゃないか?これは、すごく高価なものだよ。」
金子に換えれば、ある程度まとまったものになるだろう。
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