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淡雪の如く 19 

幼い是道は、本宅に連れてこられて何もわからぬまま、本家の暮らしに馴染もうと懸命に努力をしていたらしい。

「いい子にして、大久保のお殿様と奥様に可愛がっていただくのですよ。」

母がそう言って送り出したからだ。
初めて会った冷たい目をした父の正室を「おかあさま」と呼ぶように言われ、毎朝夕、深々と挨拶をするのが是道の日課だった。

「おかあさま。おは……ごきげんよう。」

朝も夜も、全ての挨拶は降嫁した公家の娘に合わせ「ごきげんよう」で統一され、手を突く角度が悪いといって、都から付いてきた老女が何度も挨拶のやり直しをさせた。

「おかあさま。ごきげん……よ……」

「ほら、肘(ひじ)。何度も同じことを言わせぬように。」

「はい……。」

細い竹の鞭がしなり、ピシリと硬い音を立てて細い二の腕に当たる。
肉を割る痛みに、ぱた……と、涙が零れ落ちると、子どもも満足に躾けられないのは下賤の血のせいでしょうかと、母親を馬鹿にされるので、是道は耐えた。
自分のせいで母に恥をかかせては申し訳ないと、幼心に思って居た。

側室腹の跡取りにつらく当たるのは、子どもに早く死なれた正室の悲しみが、それほど深かったということなのかもしれない。
ただ、そんな大人の深い心情など、知る由も無かった是道には、気の休まる日々はなかった。
夕餉に食する野草を摘みに野に出ることもあった実母は、夜、寝間を共にすると義母のように雅な脂粉ではなく、心地よい草いきれや、お日さまの匂いがした。
くんと鼻腔いっぱいに母の匂いを嗅いだ。

「母上からは、お日さまの匂いがします。」

「あら……。是道さまの、甘えん坊さん。」

「母上……。」

母の甘い懐を求めて蒲団にもぐりこむと、笑って身体をずらし、そっと隣をあけてくれた。
母は、今や大久保の旦那様も城持ちのお大名ではなくなったのだからと質素倹約に励み、自分の着物を解いて縫い直したりもしていた。
足袋の穴には、似た色の古裂が当てられた。

ある日突然、本家からお迎えの人力が来て、唐突に母は是道の母ではなくなった。
引き離されて与えられた是道の蒲団は、上物の羽二重(絹)の厚ものに変えられた。
だが、どんな上物を被っても、上滑りする表地のように、心は真夏でもしんと冷えたままだった。薄くても人肌で暖かったせんべい布団が恋しかった。

本家で働く周囲の者は皆、正室の顔色を伺い幼い是道に冷たかった。
大勢にかしずかれながら、孤独に耐える是道はまだ6歳になる前だった。
一挙手一投足に冷たい視線を注がれる日々に、それでも是道は何ヶ月も耐えた。
そして耐え続けたある日、事件が起きる。

*****

顔も知らない兄の法要の席だった。
おまえの生き胆を取って飲ませてしまえばよかった、それでだめなら諦めもついたのに……と義母に言われた是道は、本宅から逃亡し、恋しい実母に会うために馬車道をひた走ったのだと言う。
柔らかな腹に刃物を当てて裂こうと言う、大久保家の正室が床の間に飾った夜叉に見えた。
爛々と光る眼で、口は耳まで裂けている。
人を食らう鬼の住処に居るのがこわかった。

小ぬか雨の降りしきる中、上等の草履は脱げ、銀のこはぜも飛んだ。
袴の裾には泥がはね上がり、禿(かむろ)に揃えた髪もしっとりとぬれた。
動きやすいあつらえの洋装は、子どもには贅沢すぎると正室が言い、是道には与えられていなかった。
今は亡い、義兄の使っていた動きにくい古風な着物を着崩しながら、是道は走った。
本宅からの迎えの人力に乗せられて通った道は、どこまでも真っ直ぐだと記憶していた。
見上げた目に、真っ直ぐな馬車道が写る。この濡れた道をどこまでも駆けて行けば暖かい母の胸に行きつくと信じていた。

「母上……!」

「母上」

「母上」

懸命に心の内で繰り返し、姿を思い起こしながら、是道は懐かしい母の元へ走った。
子どもの足で数里の道は果てしなく遠かったが、母の元へ行くと思えば足取りは軽かった。
日向のにおいのする甘い胸に抱かれるために、痛む足をさすりながら是道は雨の中を休まず駆けた。
母の里へたどり着きさえすれば、まっすぐに向けられる優しい眼差しと温もりに癒されるはずだった。

「寒かったでしょう。すぐに葛湯を作ってあげましょうね。」

「いらっしゃい。是道さんの好きな、芋満月がありますよ。」

そんな言葉を胸で反芻し、是道は走った。
だが是道に、恋しい母の腕が差し伸べられることは、もう二度とない。
屋敷の表門は開かれなかった……。





いつもお読みいただき、ありがとうございます。  此花咲耶


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(´;ω;`)  ちび是道:「は、母上~」

(*´・ω・)(・ω・`*) 良太郎・市太郎:「不憫だな……。」



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