淡雪の如く 12
良太郎が訪ねた大久保是道の居室は、特別室で二部屋あり、しかも寝室も別室になっていた。
「なんでしょう?」
細く開けられた扉の向こうで、詩音が訝しげな顔を向ける。
部屋に押し入り眺めた二人の顔から、心情を読み取ったりは出来なかったが、良太郎は潔く一旦頭を下げた。
「すまなかった。先ほどは、大久保君に満座の中で恥をかかせて悪かった。一言、二人に詫びねばと思ってな。悪かった。」
内藤詩音は、どこか困っている風だ。
「急に押しかけてきて、どう言うことでしょう、佐藤様。いきなり、悪かったの許してくれのとおっしゃられても、訳がわかりません。」
急な訪問の意味を真正面から問われて、何の考えも無く勢いで走ってきたことに良太郎は狼狽した。
「つまり……悪いのはぼくで、内藤君じゃないと大久保君に伝えなければと思って……。でないと、その責めを君が負うのだろう?」
茶器を置こうとした詩音の指が、ぴくりと止まった。
良太郎は、農家の出なので、武家や公家のしきたりが分からないと、非礼を認めた上でとりあえず詫びた。
そうすることで内藤詩音に向けられる「怒り」とやらを回避できると信じていた。
良太郎のどこまでも真っ直ぐな正しい瞳は、自分の正義を見据えている。
自分が詩音を庇うことが、かえって大久保の新しい腹立ちを生むなどとは思いもしなかった。空気も読まず、良太郎は他愛なく呑気に、明日からの授業の話などをしていた。
「ぼくは学業の中では外国語が一番心配なんだが、君等は大丈夫か?」
「……若さまは、国許で英吉利公使のご友人に講義を受けました。ですから、外国語の心配はございません。」
「そうか。知り合いが公使の友人とは、すごいな大久保君。」
表情を表に出さず、是道は少し首を傾けて静かに会話を聞いていた。
その優しげな柔和な顔に、木羽の言うような問題は何もないようだとやや安心して、良太郎は席を辞そうとした。
「突然の訪問で長居をしてしまった。では、また明日。」
「はい。お休みなさいませ。」
「……ああ、詩音。」
扉に向かう客人の前で、是道は何気なく思いついたように口にした。
「今宵、伽をせよ。」
良太郎の脳内で、しばらくの間、言葉の意味と現実が結びつかなかった。
「伽(とぎ)……?夜……伽(とぎ)……?」
引きつった蒼白の顔を思わず良太郎に向けた白鶴の、瞠った双眸は静かだった。
「はい、若さま。」
だが力無く顔を俯けたら、唇が震えたのを見た気がする。油引きの床に転がった滴は、涙じゃなかっただろうか……。
足元がふらついて、一瞬、詩音はよろけた。
「大丈夫か、内藤君。」
「……大久保君、君は一体何を考えているんだ……」
思わず見やると、観音のように慈悲深く見える高貴な微笑を貼り付けた大久保は、こともなげに言った。
「小姓の務めだ。詩音は世話係として、国許から連れてきたのだから当然の義務だ。」
「それに、吐精せねば下腹が張るように思う。何なら、君にも詩音を貸してやろうか。詩音はとても良い声で啼く。」
「なっ……!」
あきれ果てた良太郎の脳内の血が、ついに一瞬に沸騰したようだった。
「ふざけるなっ!一体、人をなんだと思っている。三十年も前に江戸の時代は終わって、世界有数の近代国家になろうとしているときに、君は何と言う前時代的なことを言うんだ。」
それまでめったに口を開けなかった大久保是道も、応戦した。
「僕が前時代だと……?なるほど君の領地では、前時代的だというのかも知れないが、あいにくぼくの領地では今でも滅私奉公は家臣の義務だ。呼び名が変わっただけで、特権階級は変わらず存在する。」
思わぬ言い争いになってしまった。
「今や、四民平等で武家も士族もないっ。汗を流して働くことの意義も知らぬ、この時代遅れが。」
「君は、田舎者で世間を知らないだけだ。同室の木羽とやらの方が、世の中の仕組みを分かっているのではないのか。少しは見習いたまえ、野猿。……ああ、違った、山野の猪だったか。もういい。獣に理を解いても始まらない。猪に爵位など笑止千万だ。帰りたまえ。」
「なんだとーーーっ!」
詩音は、顔色を変えた良太郎が振り上げた腕を咄嗟に掴み、必死で止めていた。
「いけません、佐藤さま。お手を下ろしてください。若さまのおっしゃるとおりです。若さまは、何も間違ったことをおっしゃっていません。ぼくは、小姓として若様のお役に立つために、分不相応にもこちらに入学させていただいたのですから。」
「……君は、平気なのか……?そんな生き方を恥とは思わないのか……?」
「は……じ……?」
ごくりと、思わず顔を背けた詩音の喉がなった。
平気なはずなどなかった。むしろ、そここそ聞き流すべきだったのに、最悪なことに、良太郎は土壇場で質問を間違えた。
詩音は良太郎の腕をそのまま引っ張って行き、扉の外へと押し出した。
「どうか、どうか・・・お願いですから、お引き取りください。これ以上の佐藤さまのご意見は、若さまの癇に障ります。」
涙を零すまいとして、真っ赤に潤んだ黒曜石の瞳が細くなって、震える声が良太郎を責めた。
詩音が引きつるような感情を露わにしたのは、出会ってからそれが初めてだった。
「もう、向こうに行って・・・っ!」
「詩音っ!!」
マホガニーの重い扉の外へとぐいと押しやられ、それから固く閉じられた内から鍵のかけられる音がした。
「内藤っ!!開けろ!!詩音――っ!大久保っ!!」
戻らない良太郎を心配した木羽が、部屋の外でわめく友人を見つけ、引きずるようにして自室に連れ込んだ。
いずれ噂になるだろう。
良太郎がわめいたせいで、廊下にまで人だかりが出来た。
木羽が想定した最悪の事態だった。
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( *`ω´) 木羽:「まったく、君ってやつは……!」
(´・ω・`) 良太郎:「だって……」
「なんでしょう?」
細く開けられた扉の向こうで、詩音が訝しげな顔を向ける。
部屋に押し入り眺めた二人の顔から、心情を読み取ったりは出来なかったが、良太郎は潔く一旦頭を下げた。
「すまなかった。先ほどは、大久保君に満座の中で恥をかかせて悪かった。一言、二人に詫びねばと思ってな。悪かった。」
内藤詩音は、どこか困っている風だ。
「急に押しかけてきて、どう言うことでしょう、佐藤様。いきなり、悪かったの許してくれのとおっしゃられても、訳がわかりません。」
急な訪問の意味を真正面から問われて、何の考えも無く勢いで走ってきたことに良太郎は狼狽した。
「つまり……悪いのはぼくで、内藤君じゃないと大久保君に伝えなければと思って……。でないと、その責めを君が負うのだろう?」
茶器を置こうとした詩音の指が、ぴくりと止まった。
良太郎は、農家の出なので、武家や公家のしきたりが分からないと、非礼を認めた上でとりあえず詫びた。
そうすることで内藤詩音に向けられる「怒り」とやらを回避できると信じていた。
良太郎のどこまでも真っ直ぐな正しい瞳は、自分の正義を見据えている。
自分が詩音を庇うことが、かえって大久保の新しい腹立ちを生むなどとは思いもしなかった。空気も読まず、良太郎は他愛なく呑気に、明日からの授業の話などをしていた。
「ぼくは学業の中では外国語が一番心配なんだが、君等は大丈夫か?」
「……若さまは、国許で英吉利公使のご友人に講義を受けました。ですから、外国語の心配はございません。」
「そうか。知り合いが公使の友人とは、すごいな大久保君。」
表情を表に出さず、是道は少し首を傾けて静かに会話を聞いていた。
その優しげな柔和な顔に、木羽の言うような問題は何もないようだとやや安心して、良太郎は席を辞そうとした。
「突然の訪問で長居をしてしまった。では、また明日。」
「はい。お休みなさいませ。」
「……ああ、詩音。」
扉に向かう客人の前で、是道は何気なく思いついたように口にした。
「今宵、伽をせよ。」
良太郎の脳内で、しばらくの間、言葉の意味と現実が結びつかなかった。
「伽(とぎ)……?夜……伽(とぎ)……?」
引きつった蒼白の顔を思わず良太郎に向けた白鶴の、瞠った双眸は静かだった。
「はい、若さま。」
だが力無く顔を俯けたら、唇が震えたのを見た気がする。油引きの床に転がった滴は、涙じゃなかっただろうか……。
足元がふらついて、一瞬、詩音はよろけた。
「大丈夫か、内藤君。」
「……大久保君、君は一体何を考えているんだ……」
思わず見やると、観音のように慈悲深く見える高貴な微笑を貼り付けた大久保は、こともなげに言った。
「小姓の務めだ。詩音は世話係として、国許から連れてきたのだから当然の義務だ。」
「それに、吐精せねば下腹が張るように思う。何なら、君にも詩音を貸してやろうか。詩音はとても良い声で啼く。」
「なっ……!」
あきれ果てた良太郎の脳内の血が、ついに一瞬に沸騰したようだった。
「ふざけるなっ!一体、人をなんだと思っている。三十年も前に江戸の時代は終わって、世界有数の近代国家になろうとしているときに、君は何と言う前時代的なことを言うんだ。」
それまでめったに口を開けなかった大久保是道も、応戦した。
「僕が前時代だと……?なるほど君の領地では、前時代的だというのかも知れないが、あいにくぼくの領地では今でも滅私奉公は家臣の義務だ。呼び名が変わっただけで、特権階級は変わらず存在する。」
思わぬ言い争いになってしまった。
「今や、四民平等で武家も士族もないっ。汗を流して働くことの意義も知らぬ、この時代遅れが。」
「君は、田舎者で世間を知らないだけだ。同室の木羽とやらの方が、世の中の仕組みを分かっているのではないのか。少しは見習いたまえ、野猿。……ああ、違った、山野の猪だったか。もういい。獣に理を解いても始まらない。猪に爵位など笑止千万だ。帰りたまえ。」
「なんだとーーーっ!」
詩音は、顔色を変えた良太郎が振り上げた腕を咄嗟に掴み、必死で止めていた。
「いけません、佐藤さま。お手を下ろしてください。若さまのおっしゃるとおりです。若さまは、何も間違ったことをおっしゃっていません。ぼくは、小姓として若様のお役に立つために、分不相応にもこちらに入学させていただいたのですから。」
「……君は、平気なのか……?そんな生き方を恥とは思わないのか……?」
「は……じ……?」
ごくりと、思わず顔を背けた詩音の喉がなった。
平気なはずなどなかった。むしろ、そここそ聞き流すべきだったのに、最悪なことに、良太郎は土壇場で質問を間違えた。
詩音は良太郎の腕をそのまま引っ張って行き、扉の外へと押し出した。
「どうか、どうか・・・お願いですから、お引き取りください。これ以上の佐藤さまのご意見は、若さまの癇に障ります。」
涙を零すまいとして、真っ赤に潤んだ黒曜石の瞳が細くなって、震える声が良太郎を責めた。
詩音が引きつるような感情を露わにしたのは、出会ってからそれが初めてだった。
「もう、向こうに行って・・・っ!」
「詩音っ!!」
マホガニーの重い扉の外へとぐいと押しやられ、それから固く閉じられた内から鍵のかけられる音がした。
「内藤っ!!開けろ!!詩音――っ!大久保っ!!」
戻らない良太郎を心配した木羽が、部屋の外でわめく友人を見つけ、引きずるようにして自室に連れ込んだ。
いずれ噂になるだろう。
良太郎がわめいたせいで、廊下にまで人だかりが出来た。
木羽が想定した最悪の事態だった。
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( *`ω´) 木羽:「まったく、君ってやつは……!」
(´・ω・`) 良太郎:「だって……」
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