淡雪の如く 18
詩音が、大久保是道と屋敷で初めて出会ったのは10歳前の事だったらしい。
払った枝を運ぶ位できるだろうと、父の手伝いに初めて入った庭で、二人は出会った。
「殿さまは一番上のお兄様がお亡くなりになるまで、本家の奥様に若さまのことをお話になっていなかったようです。奥様はとても気位の高い方でしたので、ご嫡男を失うまで若さまのことは話せぬままだったと父が言っておりました。」
「兄上が亡くなったのか。お気の毒に。」
「若さまのご母堂さまは御側室でしたので、お家を継ぐことになった若さまは、5つの頃に実母さまとお別れされたと聞いております。」
「途中で、大久保家に入ったってことなのか?」
「はい。それからは、実母さまとずっとお会いすることなく、お一人で大久保の本家に。」
詩音の話はまるで物語の母恋物のようで、市太郎と良太郎は揃って目頭を熱くしていた。
四民平等といいながら、未だ側室制度なるものが旧家には残っていると聞き、大家族で賑やかに暮らしている良太郎はほんの少し是道を理解したような気がしていた。
大久保是道は、俗に言う殿様のご落胤という立場だったらしい。
上に正室の子が二人あったのだが、一人は表には出せない状態で、一人は夭逝してしまい、幼い是道に当主の座が回ってきたそうだ。
実母といえど是道の生みの親は、士分出身とはいうものの貧しい半農の娘で釣り合いは取れなかった。
大久保の家に入ってからは、実母を母上と呼ぶことは許されず、正室を母上と呼ぶように厳しく躾けられた。日陰の身で生まれた是道は、本家に上がるまでは自由にお過ごしだったのですがそれからは……、と詩音は語った。
「もう一人の兄上は?」
「それは……。」
本家でお蚕ぐるみにされ、陽のあたらない奥屋敷で育てられる者は、皆病弱で成長しても腺病質なものが多かったらしい。しかも、長く続いた血の近い婚姻が、良くない結果をもたらしていた。
そのため幼い頃は母親の元で過ごしていたものの、兄の死をきっかけに5歳で母親から引き離されると、本家で跡継ぎ教育を受けた。
それまで側にいた気の良い守役からも、乳母からも引き離されて、是道はたった一人で本家の広い自室に放り込まれたという。
「過去にはまだ息があった病弱な兄上のために、生まれて間もない赤子の生き胆を取って飲ませてしまおうという話もあったそうなのですが、さすがにそこは殿様がお止めくださったそうです……」
詩音は涙ぐみ、良太郎は言葉を失くした。
「若さまの知らないそんな昔話を……時折……今でも奥様は、あの時是道の生き胆さえ口にしていたら、定之は存命でいたかもしれないのにと若さまの前でおっしゃいます。」
「殿様に反対されても、さっさと取ってしまえば良かったと、幼い若さまに直接おっしゃったのをわたくしも聞いたことが有りました。若さまは……、苦しそうでした。」
「ばかな!人の命をなんだと思っているんだ。」
と、良太郎は憤慨し、片や
「まあ、そうだろうな。旧家はどこも血筋にこだわるから。直系を守る為なら何だってするだろう。」
と、市太郎は呟いた。
同じ時代に生まれても、育ちが違えばこのくらいの考えの差はある。
ましてや深窓の姫君が嫁いだ先で、腹を痛めた我子以外に家を継がせる恥辱など考えられない事だったろう。ご落胤ならなおの事、面白くないに違いない。
誰しもわが子が可愛い。
そのくらいは、誰でも分かる。
だが今、眼前でわが子の命のともし火が消えそうになっているとき、何の迷いも無く赤子に手をかけ腹を割こうとしたという義母の情の強さを聞き良太郎は驚いた。
しかもまだ幼い子どもに、躊躇無く告げるとは。
真綿のようなぬくぬくとした母親の庇護の元から、夜叉の元へと、いきなり連れてこられ怯える幼い是道を想像して、良太郎は呆然としていた。
「大久保も、下々にはわからぬ苦労をしたのだな……」
「はい。わたくしがお傍に行ってからも、お心の磨り減る毎日でした。ここからは父に聞いた話ですけれど、奥様の側で、若さまはご当主になるためのお勉強を始められたそうです。」
「そうか。」
「下のお兄様は、身体は頑健でも心が童子のような方で、若さまが本家に来てからは殿様のご寵愛は殆ど若さまに向けられました。奥さまは、それが許せなかったのです。」
「その童子のような兄上は、今も存命なのか?」
聞いてもよいのかどうか迷ったが、問わずにいられなかった。
「本家のお屋敷の奥深くで、今もひっそりと生活していらっしゃいます。」
「兄上さまもひどくご執着の激しい方で……若さまはこれまで、ずいぶんお気の毒なことでございました……。」
詩音は、思い詰めた顔を向けた。
「あの。佐藤さまは、若さまの事をどうお思いですか?」
「どうって?……世間知らずでわがままで、黙っていれば綺麗な内裏雛みた……あ、すまん。」
詩音がきっと睨みつけたのが余りに予想通りで、良太郎は思わず吹き出しそうになりながら、後の言葉を飲み込んだ。
「きっと、おっしゃらないでしょうけど……。若さまがこちらの学校を受験したのは、佐藤さまにもう一度、お会いしたかったからです。」
「ぼく?」
驚きのあまり、炭酸にむせ返って良太郎は湯飲みを取り落としそうになった。
「ぼくにもう一度?……と言っても、大久保とは何の面識もないぞ……。華族の付き合いは、父上しかしないし。」
「若さまの実母、菊様のご実家は桑並村にございました。佐藤さまの御領地のお近くです。」
良太郎は、その時やっと思い出した。
新しい大久保県令の三番目の子息は、側室腹で自分と同じ年齢だと父親が夕餉のときに話をしていた事がある。
「あぁ……そういえば、同い年の若さまが居るという話は聞いたことが有る。だけど、会ったことはないはずだけど?」
詩音が目もとを押さえ、言いよどんだ。
「一度、森でお会いしております。詩音は何度も若さまにお話を伺いました。」
「森……か……、森ねぇ……。あの顔は、まず忘れないと思うけどなぁ。」
良太郎は、記憶を探った。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 此花咲耶
払った枝を運ぶ位できるだろうと、父の手伝いに初めて入った庭で、二人は出会った。
「殿さまは一番上のお兄様がお亡くなりになるまで、本家の奥様に若さまのことをお話になっていなかったようです。奥様はとても気位の高い方でしたので、ご嫡男を失うまで若さまのことは話せぬままだったと父が言っておりました。」
「兄上が亡くなったのか。お気の毒に。」
「若さまのご母堂さまは御側室でしたので、お家を継ぐことになった若さまは、5つの頃に実母さまとお別れされたと聞いております。」
「途中で、大久保家に入ったってことなのか?」
「はい。それからは、実母さまとずっとお会いすることなく、お一人で大久保の本家に。」
詩音の話はまるで物語の母恋物のようで、市太郎と良太郎は揃って目頭を熱くしていた。
四民平等といいながら、未だ側室制度なるものが旧家には残っていると聞き、大家族で賑やかに暮らしている良太郎はほんの少し是道を理解したような気がしていた。
大久保是道は、俗に言う殿様のご落胤という立場だったらしい。
上に正室の子が二人あったのだが、一人は表には出せない状態で、一人は夭逝してしまい、幼い是道に当主の座が回ってきたそうだ。
実母といえど是道の生みの親は、士分出身とはいうものの貧しい半農の娘で釣り合いは取れなかった。
大久保の家に入ってからは、実母を母上と呼ぶことは許されず、正室を母上と呼ぶように厳しく躾けられた。日陰の身で生まれた是道は、本家に上がるまでは自由にお過ごしだったのですがそれからは……、と詩音は語った。
「もう一人の兄上は?」
「それは……。」
本家でお蚕ぐるみにされ、陽のあたらない奥屋敷で育てられる者は、皆病弱で成長しても腺病質なものが多かったらしい。しかも、長く続いた血の近い婚姻が、良くない結果をもたらしていた。
そのため幼い頃は母親の元で過ごしていたものの、兄の死をきっかけに5歳で母親から引き離されると、本家で跡継ぎ教育を受けた。
それまで側にいた気の良い守役からも、乳母からも引き離されて、是道はたった一人で本家の広い自室に放り込まれたという。
「過去にはまだ息があった病弱な兄上のために、生まれて間もない赤子の生き胆を取って飲ませてしまおうという話もあったそうなのですが、さすがにそこは殿様がお止めくださったそうです……」
詩音は涙ぐみ、良太郎は言葉を失くした。
「若さまの知らないそんな昔話を……時折……今でも奥様は、あの時是道の生き胆さえ口にしていたら、定之は存命でいたかもしれないのにと若さまの前でおっしゃいます。」
「殿様に反対されても、さっさと取ってしまえば良かったと、幼い若さまに直接おっしゃったのをわたくしも聞いたことが有りました。若さまは……、苦しそうでした。」
「ばかな!人の命をなんだと思っているんだ。」
と、良太郎は憤慨し、片や
「まあ、そうだろうな。旧家はどこも血筋にこだわるから。直系を守る為なら何だってするだろう。」
と、市太郎は呟いた。
同じ時代に生まれても、育ちが違えばこのくらいの考えの差はある。
ましてや深窓の姫君が嫁いだ先で、腹を痛めた我子以外に家を継がせる恥辱など考えられない事だったろう。ご落胤ならなおの事、面白くないに違いない。
誰しもわが子が可愛い。
そのくらいは、誰でも分かる。
だが今、眼前でわが子の命のともし火が消えそうになっているとき、何の迷いも無く赤子に手をかけ腹を割こうとしたという義母の情の強さを聞き良太郎は驚いた。
しかもまだ幼い子どもに、躊躇無く告げるとは。
真綿のようなぬくぬくとした母親の庇護の元から、夜叉の元へと、いきなり連れてこられ怯える幼い是道を想像して、良太郎は呆然としていた。
「大久保も、下々にはわからぬ苦労をしたのだな……」
「はい。わたくしがお傍に行ってからも、お心の磨り減る毎日でした。ここからは父に聞いた話ですけれど、奥様の側で、若さまはご当主になるためのお勉強を始められたそうです。」
「そうか。」
「下のお兄様は、身体は頑健でも心が童子のような方で、若さまが本家に来てからは殿様のご寵愛は殆ど若さまに向けられました。奥さまは、それが許せなかったのです。」
「その童子のような兄上は、今も存命なのか?」
聞いてもよいのかどうか迷ったが、問わずにいられなかった。
「本家のお屋敷の奥深くで、今もひっそりと生活していらっしゃいます。」
「兄上さまもひどくご執着の激しい方で……若さまはこれまで、ずいぶんお気の毒なことでございました……。」
詩音は、思い詰めた顔を向けた。
「あの。佐藤さまは、若さまの事をどうお思いですか?」
「どうって?……世間知らずでわがままで、黙っていれば綺麗な内裏雛みた……あ、すまん。」
詩音がきっと睨みつけたのが余りに予想通りで、良太郎は思わず吹き出しそうになりながら、後の言葉を飲み込んだ。
「きっと、おっしゃらないでしょうけど……。若さまがこちらの学校を受験したのは、佐藤さまにもう一度、お会いしたかったからです。」
「ぼく?」
驚きのあまり、炭酸にむせ返って良太郎は湯飲みを取り落としそうになった。
「ぼくにもう一度?……と言っても、大久保とは何の面識もないぞ……。華族の付き合いは、父上しかしないし。」
「若さまの実母、菊様のご実家は桑並村にございました。佐藤さまの御領地のお近くです。」
良太郎は、その時やっと思い出した。
新しい大久保県令の三番目の子息は、側室腹で自分と同じ年齢だと父親が夕餉のときに話をしていた事がある。
「あぁ……そういえば、同い年の若さまが居るという話は聞いたことが有る。だけど、会ったことはないはずだけど?」
詩音が目もとを押さえ、言いよどんだ。
「一度、森でお会いしております。詩音は何度も若さまにお話を伺いました。」
「森……か……、森ねぇ……。あの顔は、まず忘れないと思うけどなぁ。」
良太郎は、記憶を探った。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 此花咲耶
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