淡雪の如く 20
やっとの思いでたどり着いた表戸は、きっちりと頑丈に閂(かんぬき)がかけられ、年老いた門番は是道につれなかった。
いつか是道が逃げ帰る様なことが有っても、決して屋敷に入れないようにと、本家から下達されていた。
「爺や……。ね。後生だから、母上に是道がきたと取り次いでおくれ。」
この通りお頼みします、といって是道は門番に頭を下げたが、固く言いつけられた年よりは頑なだった。
「若さまは、ご本宅で大久保家のご当主になられるための、お勉強中のはずです。こちらにおいでになるはずがありません。」
「う……ん。」
逃げ帰って来たのだとは言えなかった。
「お名を継いだときに、大久保本家の奥方様が是道様の正式な母上さまになられたんですよ。ここを御立ちになる時に、きちんとお別れを済ませたはずです。」
是道は門番の足に縋った。
「爺や。一目でいいの。是道は、母上のお顔を見せていただいたら、本当にすぐにあちらのおうちに帰るから。」
「なん度おっしゃられても聞けません。是道様が、ここにいらっしゃるはずはありません。
若さまに良く似たあなたは、早くおうちにお帰りなさい。本家の奥さまがお待ちですよ。」
小さな手が、ぽとりと門の前の敷石に力なく落ちた。ぱたぱたと手の上に涙が散る。
「・・・えっ・・・えっ・・・ん・・・」
「はは・・・うえっ・・母上に会いた・・・い、ははうえ・・・」
とうとう、その場にしゃがみこんで泣き出してしまった是道は、固く閉ざされた門の向こうで、母が同じく身悶えていたことを知らなかった。
ここまでたどり着いた幼い是道を、無下に追い返さねばならない門番も、背を向け肩を震わせた。何里も駆けてきた是道の、着物は乱れ履物もなかった。
母も声を殺して泣きぬれていた。
是道に大人の事情が分かるはずもなかったし、自分は正室には呼び捨てにされ下女のように扱われても、何の意見も出来ない存在だった。
最愛の息子は取り上げられて正式に本家の息子になったが、それは二度と会うことのかなわぬ今生の別れを意味していた。
身体を丸くして、重い鋲を打った門の前で、幼い息子は母の手を求めて慟哭し涙にくれた。
冷たい雨が、小さな肩に降り続いていた。
どれ程の時間が経っただろう……。
門の下からそっと、手縫いの這う子人形が押し出された。
母の思いのこもった緋縮緬の小さな守り人形だった。
災厄を引き受け、どうぞ息災でいられますようにと、子どもを守る猿神の形をしていた。
気付いた門番が拾って、しょんぼりと俯く是道の膝の上に乗せた。
「若さま。よろしいですか。」
「爺やが思いますのに、母上様にお会いしたければ、方法はたった一つしかありません。ご立派にご当主となって本宅の奥様にお許しを貰うことです。」
「この這う子は、菊さまが若さまに下さったものです。母上さまとお思いになってお持ちなさい。」
涙で溶けそうになった瞳を向けて、しゃくりあげながら是道は頷いた。
「しっかりなさってください。若さまは、大久保家のご当主になられるんですよ。御強くならねばいけません。」
「お家を継げば……母上は逢って下さるの……?」
「その日が来るのを、首を長くして待っておいでですよ。」
道理のよく分かる聡明な子どもは、大人の事情も何となく理解し、父の正室が自分を疎んじているのも生き胆の一件で十分に知っていた。
両手の中にすっぽりと入る赤い這う子人形を大切に懐に入れると、門番にきちんと一礼をし是道は汚れてしまった袴の裾を手で払った。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 此花咲耶
いつか是道が逃げ帰る様なことが有っても、決して屋敷に入れないようにと、本家から下達されていた。
「爺や……。ね。後生だから、母上に是道がきたと取り次いでおくれ。」
この通りお頼みします、といって是道は門番に頭を下げたが、固く言いつけられた年よりは頑なだった。
「若さまは、ご本宅で大久保家のご当主になられるための、お勉強中のはずです。こちらにおいでになるはずがありません。」
「う……ん。」
逃げ帰って来たのだとは言えなかった。
「お名を継いだときに、大久保本家の奥方様が是道様の正式な母上さまになられたんですよ。ここを御立ちになる時に、きちんとお別れを済ませたはずです。」
是道は門番の足に縋った。
「爺や。一目でいいの。是道は、母上のお顔を見せていただいたら、本当にすぐにあちらのおうちに帰るから。」
「なん度おっしゃられても聞けません。是道様が、ここにいらっしゃるはずはありません。
若さまに良く似たあなたは、早くおうちにお帰りなさい。本家の奥さまがお待ちですよ。」
小さな手が、ぽとりと門の前の敷石に力なく落ちた。ぱたぱたと手の上に涙が散る。
「・・・えっ・・・えっ・・・ん・・・」
「はは・・・うえっ・・母上に会いた・・・い、ははうえ・・・」
とうとう、その場にしゃがみこんで泣き出してしまった是道は、固く閉ざされた門の向こうで、母が同じく身悶えていたことを知らなかった。
ここまでたどり着いた幼い是道を、無下に追い返さねばならない門番も、背を向け肩を震わせた。何里も駆けてきた是道の、着物は乱れ履物もなかった。
母も声を殺して泣きぬれていた。
是道に大人の事情が分かるはずもなかったし、自分は正室には呼び捨てにされ下女のように扱われても、何の意見も出来ない存在だった。
最愛の息子は取り上げられて正式に本家の息子になったが、それは二度と会うことのかなわぬ今生の別れを意味していた。
身体を丸くして、重い鋲を打った門の前で、幼い息子は母の手を求めて慟哭し涙にくれた。
冷たい雨が、小さな肩に降り続いていた。
どれ程の時間が経っただろう……。
門の下からそっと、手縫いの這う子人形が押し出された。
母の思いのこもった緋縮緬の小さな守り人形だった。
災厄を引き受け、どうぞ息災でいられますようにと、子どもを守る猿神の形をしていた。
気付いた門番が拾って、しょんぼりと俯く是道の膝の上に乗せた。
「若さま。よろしいですか。」
「爺やが思いますのに、母上様にお会いしたければ、方法はたった一つしかありません。ご立派にご当主となって本宅の奥様にお許しを貰うことです。」
「この這う子は、菊さまが若さまに下さったものです。母上さまとお思いになってお持ちなさい。」
涙で溶けそうになった瞳を向けて、しゃくりあげながら是道は頷いた。
「しっかりなさってください。若さまは、大久保家のご当主になられるんですよ。御強くならねばいけません。」
「お家を継げば……母上は逢って下さるの……?」
「その日が来るのを、首を長くして待っておいでですよ。」
道理のよく分かる聡明な子どもは、大人の事情も何となく理解し、父の正室が自分を疎んじているのも生き胆の一件で十分に知っていた。
両手の中にすっぽりと入る赤い這う子人形を大切に懐に入れると、門番にきちんと一礼をし是道は汚れてしまった袴の裾を手で払った。
いつもお読みいただき、ありがとうございます。 此花咲耶
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