漂泊の青い玻璃 67
「どうしたの?忘れ……?あっ。」
「尊じゃなくて、残念だったな?」
「あの……」
「尊は仕事で渡米するらしいな。行く前に、ここへ寄ったんだろう?」
何故、尊の渡米の事を父が知っているのかと、琉生は不思議に思う。尊が父に言うはずはない。
ずっと監視されていたとは、露ほども疑わない琉生だった。
「お父さん……あの、しばらく会わない間にずいぶんと痩せたみたいだね?」
「食欲が無いからな。飯を食っても砂をかむようで味気ないんだ。お前の作った飯が懐かしい……」
「ぼくが作れるの何て、味噌汁とパスタ位だよ。」
「パスタか、それもいい。」
じりじりと、気付かれないように琉生は慎重に居場所をずらした。普通に会話をしていても、父がいつかのようにいきなり豹変するかもしれない。表面的には何ともなくとも、父の中には琉生を母と混同する根深い病巣がある。
痩せこけた父の姿に、おそらく病は進行しているのではないかと危惧する。ぎらぎらと光る目で寺川は琉生を射すくめた。
ぐるりと部屋を見渡して、それからじっと父は琉生を凝視した。
「何度も引っ越したな。今も絵を描くのか……?」
「うん。美大で油絵を描いてるんだ。いつか、絵で独り立ちできればいいなって思ってる。」
「ああ、そういえば何か大きな賞を取ったんじゃなかったか?」
「少し前に……え、お父さん、知ってたの?」
琉生は一瞬、父親がそういう風に言うのは、自分の事を気にしてくれているからではないかと、いい方に誤解した。
だが、嬉しくなった琉生の弾んだ声は、すぐに曇ることになる。
「誰だったかな……誰かがお前に何か……祝いを届けに来ていた。」
「お祝い?誰だろう。黒瀬先生かな。美術の先生だって言ってなかった?」
「黒瀬……そんな名前だった気がするが……。そいつはお前の何だ?」
「何って……中学の絵の先生だよ。それで、お父さんはここにお祝いを持って来てくれたの?」
「いや。そんなものは捨てた。そろそろお前の遊びも終わりだ。この部屋の物はすぐに業者を呼んで処分させる。帰るぞ。」
「え……捨てた……?……」
琉生は蒼白になった。つきんと胸が痛くなる。
黒瀬先生は、琉生をいつも励ましてくれた恩師だった。
それに、小さくとも、ここは琉生の城だった。寸暇を惜しんでカンバスに向かっていると、清浄な自分でいられる大切な場所だ。
今は無い実父が自分の中に確かに存在していると、実感できる空間と時間だった。母も背中を押してくれていると感じていた。
それを父は遊びだと言い切った。
「いやだよ。ここは、お父さんとは関係ないぼくの場所なんだ。お父さんには邪魔させない。絵を描くのは一生を懸けたぼくの夢なんだ、遊びなんかじゃない。絶対にやめない。」
「聞き分けのないことを言う。何が不満だ。これまで自由にさせてやったのに、まだそういうことを……」
寺川は手を上げようとした。
「お父さん!」
寺川の目に映る妻は、涙を浮かべた。
『怒らないで、弘樹さん……』
「どうして、そんなことを言うの?ぼくはお母さんじゃないよ。お母さんはとうに死んだんだ。ぼくを良く見てよ!」
「そうだな……だが、俺も何年も待ったんだ。やっと邪魔者が居なくなったんだ。一緒に暮らすのは自然なことだ。」
寺川は琉生の腕を取った。
妻が身を捩る。
「放して!」
「美和……?」
「ぼくはどこへも行かない!ずっと、ここで絵を描くんだ……!あーっ!」
今では想像もつかないが、若い頃、寺川は柔道の選手だった。
琉生は簡単に右腕の関節を決められて、痛みに悲鳴を上げた。
「いつまでも、遊びに付き合う訳にはいかないぞ。これ以上、聞き分けのないことを言うなら、俺にも考えがある。腕がなくなっても、絵を描きたいと言えるかな。」
「や……」
琉生は怯えた。
父は本気で、琉生の腕を折ろうとしていた。ありえない方向に関節を曲げられ、骨が軋んだ。
もし、このまま腕を折られてしまったら絵筆を持つこともかなわなくなる……
「うわあぁーーーっ!!」
琉生の中で、何かが弾けた。
本日もお読みいただきありがとうございます。(〃゚∇゚〃)
やはり父は良くなっていませんでした。
病院にもいかず薬も飲んでいないのですから、当然なのですが……大丈夫かなぁ、琉生くん。(´・ω・`)
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