パンドラの夏 2
恋焦がれていたしなやかな獣が、手負いになって俺の目の前に現れた。
熱を持ったアスファルトの裂け目に車椅子の前輪がはまって、懐かしい恋人が汗だくで悪戦苦闘していた。
「蒼太(そうた)……?」
「あ、先輩。手、貸してください。動けなくなっちゃって」
数年ぶりにあったというのに、自然な一言に一気に距離が縮む。
膝の怪我はスポーツニュースで流れているのを見たが、選手としては致命的なのだろうと思うほど、頑丈に真っ直ぐに固定されていた。
有名になっても、人に向ける好ましい姿勢は、何ら変わらない。
「おい!」
様子を伺っていたホストを呼び、そっと衝撃を当てないように数人がかりで車椅子を持ち上げた。
困ったような笑顔に、あの日と同じように光る汗が首筋を滴り落ちた。
「良かった、助かったあ。先輩に会えなかったら、俺、打ち上げられた魚みたいに、ここで死ぬところでしたよ」
まじ、やばかった~と言って、笑った。
絶対安静で入院中のはずだがどうしたんだ?というと、一転して顔が引きつり曇った。
「まあ、いい。病院送りは後だ。せっかく訪ねてきてくれたんだ、入れよ」
店の上は、テナントが数件と大っぴらになっていないが、世話になっている組の事務所が入っている。
一応ささやかだが、自社ビルというやつだ。
「汗だくじゃないか、ほら」
「いただきます」
昔から、蒼太は炭酸を飲まない。
糖分が体に残ってゆく気がするからという理由で、いつも薄いスポーツドリンクを飲んでいた。
おかげで、いつしかこっちもアルコール以外はこれだ。
「……さすがに、ちょっとへこんでます」
「だろうな。引退だもんなぁ。で、おまえの大事なションベン小僧が、泣き止まないのか?」
「う~ん、相変わらず先輩はお見通しだなぁ。怪我よりも、円(まどか)が泣くと、どうしていいか分からなくて……」
ちらと見ると、震える唇を噛みしめているのが見えた。
一度声を発してしまうと、もうなし崩しになってしまうのだろう。
中学高校と同じサッカー部で、自分を慕ってきた後輩が泣くのを見るのは、全国優勝を逃した時以来だった。
「俺の所まで、遠路はるばる車椅子転がして来たのは、泣きに来たってことだろ?」
「せん……ぱ……」
「いいよ。ほら、胸貸してやる」
「足が痛いんで、縋れません」
「めんどくせ~な」
鍛え上げられたしなやかな筋肉で覆われた美しい肉体は、緩いジャージを着ていても分かる。
縦横無尽に、ピッチを駆け抜けた野生のインパラが、傷ついて庇護を求めていた。
ぐいと拳で溢れたものを拭うと、精悍な顔を上げた。
「大丈夫です。命とられたわけじゃなし。いつかはこんな日が来るってプロになったときに分かってたんですから。ほら、ここの先輩も知ってる古傷。まだボルト抜いた痕、残ってるでしょ?あの時から、次はないぞって医者に言われてましたしね」
「ションベン小僧が、何か言ったか?」
返事はなかった。
軽く、頭を振った。
先輩と呼ばれた木本は思い出す。
年の離れた従兄弟が弟になったんだと、うれしそうに写真を見せてくれた。
まともに真っ直ぐボールも飛ばないくらい、サッカーの素質は皆無だけどくっついてくるのが可愛いんですよと、時間のある限り面倒を見ていた。
事故で亡くなった叔母の忘れ形見なんです。
……確か、そう言っていた。
「も……う、駄目かな。円は、サッカーの上手な蒼太兄ちゃんが好きだっただけだし……俺からサッカーを取ったら、驚くほど何も残ってなくて」
「蒼太」
「すみません、せんぱ……い、弱音吐きたくても、俺、普段カッコつけてるから、泣けるとこ、先輩の所しか思いつかなくて」
弱っているから、思わず吐露してしまった本音なのだろう。
抱きしめてやりたかったが、怪我に障りそうでそっと肩を抱くしか出来なかった。
「おまえ、サッカーが出来なくなったら、ションベン小僧に棄てられると思ったのか?」
「嫌われたらどうしようって、弱気にもなりますよ。だって、円ってばめっちゃ可愛いんですもん。写メ見ます?」
「俺は、乳臭いガキは嫌いなんだ」
やっと笑った後輩に、木本は手を伸ばした。
手入れされずに薄く延びた髭が、悩みの深さと怪我の深刻さを物語っていた。
「拭いてるけど、まともに風呂に入ってませんから身体汚いですよ、俺。さっき、表で絞れるほど汗かいちゃったし」
「お前のなら、チンカスでも何でも食ってやる。」
「うわ~、冗談に聞こえね~」
千載一遇のチャンスに真顔で言い切ると、蒼太は顔から火を噴いたように赤面した。
「先輩、変わらないなぁ。あっ……でも、怪我してるから、無理です。勃ちませんよ」
「しばらく、ここにいるんだろ?だったら、試用期間中だ」
ジャージの下から、校庭で走る蒼太を見つめていた木本の過去が、フラッシュバックした。
長い間、忘れられないで想いを抱いていたことなど、こいつは何も知らない。
話の分かる先輩に、気まぐれに慰めてもらっただけだと思うだろう。
「痛いっ!やばっ、足、内腿に力入ると根元から、ぶちきれそうです、せんぱっ、痛~いっ!!」
半勃ちのものから顔を上げると、仕方なく伸び上がって口をむさぼった。
「ここからは家賃分だ、くそぉ、やっぱり生殺しかよっ」
そういえば、高校のときも同じような台詞で逃げられた気がする。
口腔をむさぼられた野生のインパラが、肉食獣の追撃を何とかかわし、ほっと一息ついた。
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熱を持ったアスファルトの裂け目に車椅子の前輪がはまって、懐かしい恋人が汗だくで悪戦苦闘していた。
「蒼太(そうた)……?」
「あ、先輩。手、貸してください。動けなくなっちゃって」
数年ぶりにあったというのに、自然な一言に一気に距離が縮む。
膝の怪我はスポーツニュースで流れているのを見たが、選手としては致命的なのだろうと思うほど、頑丈に真っ直ぐに固定されていた。
有名になっても、人に向ける好ましい姿勢は、何ら変わらない。
「おい!」
様子を伺っていたホストを呼び、そっと衝撃を当てないように数人がかりで車椅子を持ち上げた。
困ったような笑顔に、あの日と同じように光る汗が首筋を滴り落ちた。
「良かった、助かったあ。先輩に会えなかったら、俺、打ち上げられた魚みたいに、ここで死ぬところでしたよ」
まじ、やばかった~と言って、笑った。
絶対安静で入院中のはずだがどうしたんだ?というと、一転して顔が引きつり曇った。
「まあ、いい。病院送りは後だ。せっかく訪ねてきてくれたんだ、入れよ」
店の上は、テナントが数件と大っぴらになっていないが、世話になっている組の事務所が入っている。
一応ささやかだが、自社ビルというやつだ。
「汗だくじゃないか、ほら」
「いただきます」
昔から、蒼太は炭酸を飲まない。
糖分が体に残ってゆく気がするからという理由で、いつも薄いスポーツドリンクを飲んでいた。
おかげで、いつしかこっちもアルコール以外はこれだ。
「……さすがに、ちょっとへこんでます」
「だろうな。引退だもんなぁ。で、おまえの大事なションベン小僧が、泣き止まないのか?」
「う~ん、相変わらず先輩はお見通しだなぁ。怪我よりも、円(まどか)が泣くと、どうしていいか分からなくて……」
ちらと見ると、震える唇を噛みしめているのが見えた。
一度声を発してしまうと、もうなし崩しになってしまうのだろう。
中学高校と同じサッカー部で、自分を慕ってきた後輩が泣くのを見るのは、全国優勝を逃した時以来だった。
「俺の所まで、遠路はるばる車椅子転がして来たのは、泣きに来たってことだろ?」
「せん……ぱ……」
「いいよ。ほら、胸貸してやる」
「足が痛いんで、縋れません」
「めんどくせ~な」
鍛え上げられたしなやかな筋肉で覆われた美しい肉体は、緩いジャージを着ていても分かる。
縦横無尽に、ピッチを駆け抜けた野生のインパラが、傷ついて庇護を求めていた。
ぐいと拳で溢れたものを拭うと、精悍な顔を上げた。
「大丈夫です。命とられたわけじゃなし。いつかはこんな日が来るってプロになったときに分かってたんですから。ほら、ここの先輩も知ってる古傷。まだボルト抜いた痕、残ってるでしょ?あの時から、次はないぞって医者に言われてましたしね」
「ションベン小僧が、何か言ったか?」
返事はなかった。
軽く、頭を振った。
先輩と呼ばれた木本は思い出す。
年の離れた従兄弟が弟になったんだと、うれしそうに写真を見せてくれた。
まともに真っ直ぐボールも飛ばないくらい、サッカーの素質は皆無だけどくっついてくるのが可愛いんですよと、時間のある限り面倒を見ていた。
事故で亡くなった叔母の忘れ形見なんです。
……確か、そう言っていた。
「も……う、駄目かな。円は、サッカーの上手な蒼太兄ちゃんが好きだっただけだし……俺からサッカーを取ったら、驚くほど何も残ってなくて」
「蒼太」
「すみません、せんぱ……い、弱音吐きたくても、俺、普段カッコつけてるから、泣けるとこ、先輩の所しか思いつかなくて」
弱っているから、思わず吐露してしまった本音なのだろう。
抱きしめてやりたかったが、怪我に障りそうでそっと肩を抱くしか出来なかった。
「おまえ、サッカーが出来なくなったら、ションベン小僧に棄てられると思ったのか?」
「嫌われたらどうしようって、弱気にもなりますよ。だって、円ってばめっちゃ可愛いんですもん。写メ見ます?」
「俺は、乳臭いガキは嫌いなんだ」
やっと笑った後輩に、木本は手を伸ばした。
手入れされずに薄く延びた髭が、悩みの深さと怪我の深刻さを物語っていた。
「拭いてるけど、まともに風呂に入ってませんから身体汚いですよ、俺。さっき、表で絞れるほど汗かいちゃったし」
「お前のなら、チンカスでも何でも食ってやる。」
「うわ~、冗談に聞こえね~」
千載一遇のチャンスに真顔で言い切ると、蒼太は顔から火を噴いたように赤面した。
「先輩、変わらないなぁ。あっ……でも、怪我してるから、無理です。勃ちませんよ」
「しばらく、ここにいるんだろ?だったら、試用期間中だ」
ジャージの下から、校庭で走る蒼太を見つめていた木本の過去が、フラッシュバックした。
長い間、忘れられないで想いを抱いていたことなど、こいつは何も知らない。
話の分かる先輩に、気まぐれに慰めてもらっただけだと思うだろう。
「痛いっ!やばっ、足、内腿に力入ると根元から、ぶちきれそうです、せんぱっ、痛~いっ!!」
半勃ちのものから顔を上げると、仕方なく伸び上がって口をむさぼった。
「ここからは家賃分だ、くそぉ、やっぱり生殺しかよっ」
そういえば、高校のときも同じような台詞で逃げられた気がする。
口腔をむさぼられた野生のインパラが、肉食獣の追撃を何とかかわし、ほっと一息ついた。
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