杏樹と蘇芳(平安) 18
平安のころの話である。
膝をついたままにじり寄ってきた山椒大夫が、杏樹の肩に手を掛けようとした。
触れようとして、いくつもの擦過傷に気が付き、固まった手は下ろせなかった。
暴行を受け続けた杏樹の柔肌には、あちこちにたくさんの傷が附いていて痛々しかった。
「まさか。香月(かつき)のはずがない。そうじゃ、香月ならば背中だけではなく、外から見えぬ内腿にもう一つ痣があったはず……じゃ」
呟きを聞いた次郎が、杏樹の着物を割って確かめると兄の顔を見た。
「兄者、これか」
思わず覗き込んだ山椒大夫が顏をゆがめると、大きな体がどっと床に倒れ頭を抱えた。
杏樹の白い内腿には、傷に埋もれて背中の花弁と同じような赤い花弁が、一枚舞っていた。
「香月……。わしは、わが息子になんという仕打ちを……!」
どれほど言葉を尽くしても、取り繕うことなどできなかった。
詫びのしようもない。
父が息子にしたことは、決して人の所業ではなかった。
喰いしばった歯から、地鳴りのように低い後悔の呻きが漏れる。
「外道じゃ。わしは、畜生道に墮ちた、愚か者じゃ……」
「お館さま」
杏樹は這いつくばった山椒大夫に、声を掛けた。
「今ならお判りでしょう?こうして生きてここにいるわたしこそが、あなた様へ下された神仏の御加護です」
「畜生道に堕ちたわしへの加護というか……」
慈愛に溢れる美童の言葉を、山椒大夫は伏したまま、甘露を受け止めるように聞いていた。
悪鬼に囚われ地獄の使役となった山椒大夫の頬へ、悔恨の涙が流れる。
微笑む杏樹は、観音の化身のように見えた。
鬼から人に戻ってひたすら悔い改める山椒大夫を抱擁し、共に涙を流した。
「取り返しのつかぬことを、してしまった。お前になんと詫びればいいかわからぬ……」
「生きている間に取り返せないことなど、そう多くはありません」
「香月……」
まだ14歳の観音の足元に縋り付き、山椒大夫は長年の苦しみから解き放たれたのだった。
一方、塩商人の助けを借りて、蘇芳は無事に生き延びていた。
杏樹の言うとおり、しばらくは国分寺に身を潜め、追っ手の様子をうかがっていた。
気持ちは急いたが、決して短慮を起こしてはならないと、兄と固く約束していた。
懐に入れてくれた観音像は、どこか杏樹に似ていて話しかけてくれているような気がする。
金無垢の観音像は、杏樹のただ一つの願いを聞き届け、蘇芳はやがて寺に参拝に来た都人に請われ、共に都へと行くことになる。
離れ離れになって、4年の月日が流れていた。
都に行けば父の知人も多く、讒言の汚名も晴れた今、蘇芳の後見をしてやろうというものは多い。
これも皆、兄の持たせてくれた神仏の導きによるものと蘇芳は手を合わせた。
「兄上。観音様のお導きで、やっとここまで来ることが出来ました。蘇芳は、父上にお会いしましたら必ず兄上をお迎えに上がります。……ですから、それまでどうぞご無事でいてください。観音さま。あの恐ろしい人買いの山椒大夫から、どうぞ兄上をお守りください」
それから先は、まさに季節を感じる間もない素早さで事は運んだ。
ついには朝廷へ蘇芳を伴ってくれる者もいて、話を聞いた帝は自らねぎらいの言葉をかけ、蘇芳と父は馬や家、都近くの荘園まで褒美として戴いた。
一家没落の後、どれほどの艱難辛苦が兄弟を襲ったか蘇芳の話を聞いた女房たちは、まるで一つの物語のようじゃと蘇芳を取り囲んで涙した。
手練れの郎党を連れ、ついに蘇芳は杏樹の元へと向かう。
万が一、山椒大夫が手向かった場合も考えて、帝の近習数人も伴に従えて万全の支度を整終えて、蘇芳は懷かしい兄の元へと急いだ。
「杏樹兄さま、もうすぐお迎えに上がります。どうか、どうか、ご無事で」
馬上の凛々しい若武者、蘇芳の懐には大切な観音像が忍ばせてあった。
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