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杏樹と蘇芳(平安) 19 【最終話】 

平安のころの話である。




都から遠く離れた、杏樹の囚われている山椒大夫の里を目指していた。
杏樹の望み通り元服も済ませ、凛々しい若武者となった蘇芳は、17歳になっている。
父との再会も果たし、後は杏樹を取り戻すことだけが蘇芳の悲願だった。
胸にある金無垢の観音像に、杏樹は蘇芳の無事を願い、今の蘇芳は杏樹の息災を祈願していた。
あの酷い場所で、兄は無事でいるだろうかと、不安の渦巻く道中だった。

見る影もない老女となった母を認めたのも、兄が託した観音さまのお導きだったかもしれない。
先を急ぐ馬上の蘇芳が、ふと道端でわらむしろに座って、鳥を追う老女に気が付いた。
盲いた老女の面影に、どこかで見た気がすると思い蘇芳は馬を降りた。
手元に胡弓のあるところを見ると、このあたりに多い瞽女(ごぜ)やもしれぬ。
気配を感じたのかどうか、老女は見えぬ目を向け、小さな声で鳥追いの歌を歌った。
「杏樹こいしや、ほーらほい……蘇芳こいしや、ほーらほい……」
立ち尽くした蘇芳の頬をはらはらと涙がこぼれた。
恋い続けた、子を思う母の姿であった。
「母上……よくぞ、ご無事で……」
膝に顔を埋める誰かに、母の皺だらけの細い手が伸びた。
「わしを、母上と呼ぶお前の名は?」
「蘇芳でございます。母上。お会いしとうございました」

いぶかしげに閉じた目を向ける母に、蘇芳は縋った。
「引き離された折り、川の小舟から身を投げられたのを見て、よもや生きているとは思いもせず……これまでお探しできませんでした。ご苦労をお掛けして、申し訳ございません」
「蘇芳?おお、幼子だった蘇芳が生きておったとは。ここに来ておくれ、ああ、顔が見たいのう。杏樹は?杏樹はどこじゃ……?」
苦労の年月が刻まれた、老いさらばえた細い手を握り蘇芳は固く誓った。
「これから、兄上をお迎えに参るのです。母上、どうぞ、そのままこちらをお向きになってください。」
霊験あらたかな観音像を静かにかざすと、母の盲いた眼から突然どっと涙があふれた。
そのままゆっくりと、閉じた目蓋を開ければ、母の目には幼き頃の面影を残した美丈夫が、絢爛とした戦ごしらえで、涙にくれる母の眼前に立っているのが見える。
「家中の者と、先にわが屋敷へお帰り下さい。必ず、兄上を伴って帰参致します」
「蘇芳……夢のようじゃ……」
母は、ひたすら滂沱の涙にくれた。

あれから、山椒大夫の里では次郎が采配を奮い、塩汲みと萱刈と息つく暇もなく重労働に喘ぐ奴婢の身分を無くしていた。
里に住むものは、働きに見合った賃金を得て、貧しくとも自分たちの為に生きられるようにと荘園を継いだ杏樹と次郎は、懸命に考えた。

荘園で働く者は、家族を持ち集落を作る。
明日の無い奴婢の身分から解放されて、皆、日々の労働を未来への活力にしていた。
里が豊かになれば、おのずと働く者も豊かになる。
村人の努力が実を結ぶように、新しく開墾した土地は開墾した者の持ち物となった。

山椒大夫はと言えば、僧籍へと身をやつし、今は懺悔の旅の空の下にある。
愚かな所業を悔い、半生の全てを掛けてわが子を手元にお返しくださった神仏に、祈りを捧げる日々を送っていた。
もう二度と、浅ましい畜生道へと墮ちることはなかった。

杏樹は、かつて住んでいた父の所領がそうであったように里山の外れに、数えきれないほどの杏の木を植えていた。
漢方薬として広く鎮咳剤・去痰剤として多く用いられている、杏の種の中にある杏仁を取り出し出荷する。
種の仁を絞って精製する杏仁油は、都人の頭髪油としても使われ、木が育つ毎に、かつて鬼の住処と言われた貧しい山椒大夫の里は、見違えるほど豊かになってゆく。

一面のわら筵に、実から取り出した杏の種を並べて陰干する。
季節のそんな作業の終わりに、杏樹はほっと息をついた。
傍らで働く夫婦ものの傍には、小さな子供らが転げまわり、かつての杏樹と蘇芳のように笑い合っていた。
幸せな光景を見やりながら、「やっとここまで来ましたね、次郎さま。」と青年杏樹が次郎に嬉し気に告げる。
共に力を合わせて里を盛り立てながら、優しい次郎を自らの半身とも思い杏樹は慕って来た。
今は、少しは筋肉もついて華奢な少女の面影はないが、優美な姿は美童であったころよりも艶やかだった。
懐に抱きしめられて、成長した杏樹は優しい次郎の胸にゆっくりと頬を寄せた。

杏の花が薄紅色に咲き乱れていた。
まるで十二単の裳裾のように里山を覆い尽くす風景に、いつしか人々は山椒大夫の名を忘れ「杏樹の里」と美しい名を付けた。

舞い散る花弁の下に佇む杏樹に向かい、馬上の若武者が声を掛けた。
「兄上!」
「蘇芳……?ああ……」

一陣の風に、杏樹の頬が緩む。

ただ一つの、願い続けた光景であった。



                              杏樹と蘇芳 ―完―





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