明けない夜の向こう側 第三章 4
望月医師は、青年に向かっても、華桜陰大学出身だと告げていたらしいが、それはそうありたかったという虚言だった。
それほど学業が優秀ではなかった望月は、医師になりたい夢を持っていたが大学受験すらできずに挫折している。
望月の両親は、不出来な息子を思い心を痛めていた。
「あれは、今度の試験も芳しくなかったようだね」
「誰に似たのか……何度家庭教師を変えても駄目ですわ」
「まあいい。わたしが何とかしよう」
出来ない子供ほど可愛いという事だろうか。
医学部など到底受験できるような学力のない望月を心配した父親は、中学を卒業すると、金を積んで医学専門学校の予科に入学させた。
望月は、そのまま本科を卒業し曲がりなりにも医師免許を手に入れた。
大戦時、戦地で不足する医者を粗製乱造するように、臨時医専と称する医学専門学校が乱立していたのも好都合だった。
卒業さえすれば、曲がりなりにも医師と名乗れた。
その実は、大学出身の医者からすれば、「床屋の学校に毛が生えた」程度の低い技術と、知識しか持ち合わせていない。
だが、母親はできの悪い息子が医者になったと泣いて喜んだ。
正しくは、陸軍軍医予備兵というのが、望月の身分だった。
このどさくさで医師とは名ばかりの望月が、形ばかりの免許を持ち医師として采配を振るったのが鳴澤家の不幸だったかもしれない。
鳴澤はそう言った事情を何も知らないで、たまたま望月の妹と知り合い結婚した。
身体は丈夫ではなかったが、気立ての良い娘で、華族の末席にいる鳴澤の本質を認め愛した。
爵位は低かったが、鳴澤も戦後を生き抜く逞しい力を持っていた。
長州藩の祖先を持っているせいで、時代の先を読む力に優れていたのかもしれない。
やがて、鳴澤は一代で巨万と言われる富を築いた。
だが、そんな鳴澤が家族を得たのが、一番の弱みになった。
愛する妻は産後の肥立ちが悪く、長女を出産したころから寝付くことが多かったが、跡取りを望む周囲の声に応えて再び郁人を身ごもり、生んだ後、鳴澤の願いもむなしく急性腎盂炎で亡くなってしまう。
腎臓の一つは、すでに娘の為に摘出しており、残った腎臓の動きも鈍く治療効果はなかった。
子供を託された鳴澤は、必死で彼らを守ろうとしたが、不幸にも妻に続いて長女もあっさりと亡くなってしまった。
どれ程、妻の代わりにと望んでも鳴澤の血液は特殊な型で、提供者にはなれなかった。
体質的に、娘は母親に似て腎臓系統が弱かったのだろうと、いつか印南教授が櫂に語ったことがある。
妻を亡くして、半狂乱になった慟哭の鳴澤に近づき、小賢しい義弟の望月は付け込んだ。
自分の医院も持てず、父の力をもってしても大病院でも働けなかったという立場もあった。
自分なら郁人を守れると、自らを売り込み、実際は現場の経験も殆どないのに、医学書の中の知識をひけらかし、怪しげな民間療法を実践しながら、郁人の主治医となった。
「義兄上。由美子さまは戦時下でしたから、大した医療も行えずみすみす死なせてしまいましたが、郁人さまの事はお任せください」
「郁人は……あのまま健康で過ごせるだろうか……?妻や由美子のように倒れはしないだろうか」
やっと顔を上げた鳴澤の虚ろな目に、惜しみない助力を口にする望月は、救世主のように映った。
「義兄上、ご安心ください。わたしがお傍におります」
「そうか……そうだな……君は医者だった」
「米国では、腎臓病は既にかなりの腎臓移植が行われています。妹が生きていたら、自分の命を賭けてでも必ず移植を願ったでしょうが、鬼籍に入った今はかなわない。高貴な血を絶やさぬためにも、これからは先の事をお考えになった方がよろしいかと思います」
「どういう事だ……?」
「由美子さまに、妹の腎臓を植えたように、新しい腎臓を探すのですよ、義兄上。妹は元々身体が弱かったので、腎臓も恐らく元気ではなかったはずです。壮健な義兄上の血を継いだ子供を、作られてはいかがですか?郁人さまの将来の事を考えれば、それが一番いいと思います」
「郁人の将来……だが、わたしの血液はとても特殊で、移植には向かないと言われた。君も医者ならわかるだろう。親子間でも血液型が違うと移植は難しい。その上、わたしと同じ型の血液はとても稀で使い物にはならないんだ」
「義兄上の血を引いた存在があれば……という話をしています。丈夫な腎臓なら、一つあれば何の問題もなく生活できます。弟妹が兄を助けるのに何の躊躇がありましょう。美談になればこそ、咎めだてするものなどありますまい」
望月の恐ろしい提案に、逡巡しながらも鳴澤は結局同意した。
やがて、鳴澤は芸者遊びをはじめ、ある女を愛人として囲った。
望月は腎臓治療が日進月歩の勢いで発展してゆく経過を知らない。
移植の当日から由美子に植えた腎臓が働き始め、あふれ出る透明な尿に感嘆したその日から、望月の知識は止まっていた。
最も、母の腎臓は弱く、娘の体内で結局数日しか動かなかったのだが……
本日もお読みいただきありがとうございます。
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それほど学業が優秀ではなかった望月は、医師になりたい夢を持っていたが大学受験すらできずに挫折している。
望月の両親は、不出来な息子を思い心を痛めていた。
「あれは、今度の試験も芳しくなかったようだね」
「誰に似たのか……何度家庭教師を変えても駄目ですわ」
「まあいい。わたしが何とかしよう」
出来ない子供ほど可愛いという事だろうか。
医学部など到底受験できるような学力のない望月を心配した父親は、中学を卒業すると、金を積んで医学専門学校の予科に入学させた。
望月は、そのまま本科を卒業し曲がりなりにも医師免許を手に入れた。
大戦時、戦地で不足する医者を粗製乱造するように、臨時医専と称する医学専門学校が乱立していたのも好都合だった。
卒業さえすれば、曲がりなりにも医師と名乗れた。
その実は、大学出身の医者からすれば、「床屋の学校に毛が生えた」程度の低い技術と、知識しか持ち合わせていない。
だが、母親はできの悪い息子が医者になったと泣いて喜んだ。
正しくは、陸軍軍医予備兵というのが、望月の身分だった。
このどさくさで医師とは名ばかりの望月が、形ばかりの免許を持ち医師として采配を振るったのが鳴澤家の不幸だったかもしれない。
鳴澤はそう言った事情を何も知らないで、たまたま望月の妹と知り合い結婚した。
身体は丈夫ではなかったが、気立ての良い娘で、華族の末席にいる鳴澤の本質を認め愛した。
爵位は低かったが、鳴澤も戦後を生き抜く逞しい力を持っていた。
長州藩の祖先を持っているせいで、時代の先を読む力に優れていたのかもしれない。
やがて、鳴澤は一代で巨万と言われる富を築いた。
だが、そんな鳴澤が家族を得たのが、一番の弱みになった。
愛する妻は産後の肥立ちが悪く、長女を出産したころから寝付くことが多かったが、跡取りを望む周囲の声に応えて再び郁人を身ごもり、生んだ後、鳴澤の願いもむなしく急性腎盂炎で亡くなってしまう。
腎臓の一つは、すでに娘の為に摘出しており、残った腎臓の動きも鈍く治療効果はなかった。
子供を託された鳴澤は、必死で彼らを守ろうとしたが、不幸にも妻に続いて長女もあっさりと亡くなってしまった。
どれ程、妻の代わりにと望んでも鳴澤の血液は特殊な型で、提供者にはなれなかった。
体質的に、娘は母親に似て腎臓系統が弱かったのだろうと、いつか印南教授が櫂に語ったことがある。
妻を亡くして、半狂乱になった慟哭の鳴澤に近づき、小賢しい義弟の望月は付け込んだ。
自分の医院も持てず、父の力をもってしても大病院でも働けなかったという立場もあった。
自分なら郁人を守れると、自らを売り込み、実際は現場の経験も殆どないのに、医学書の中の知識をひけらかし、怪しげな民間療法を実践しながら、郁人の主治医となった。
「義兄上。由美子さまは戦時下でしたから、大した医療も行えずみすみす死なせてしまいましたが、郁人さまの事はお任せください」
「郁人は……あのまま健康で過ごせるだろうか……?妻や由美子のように倒れはしないだろうか」
やっと顔を上げた鳴澤の虚ろな目に、惜しみない助力を口にする望月は、救世主のように映った。
「義兄上、ご安心ください。わたしがお傍におります」
「そうか……そうだな……君は医者だった」
「米国では、腎臓病は既にかなりの腎臓移植が行われています。妹が生きていたら、自分の命を賭けてでも必ず移植を願ったでしょうが、鬼籍に入った今はかなわない。高貴な血を絶やさぬためにも、これからは先の事をお考えになった方がよろしいかと思います」
「どういう事だ……?」
「由美子さまに、妹の腎臓を植えたように、新しい腎臓を探すのですよ、義兄上。妹は元々身体が弱かったので、腎臓も恐らく元気ではなかったはずです。壮健な義兄上の血を継いだ子供を、作られてはいかがですか?郁人さまの将来の事を考えれば、それが一番いいと思います」
「郁人の将来……だが、わたしの血液はとても特殊で、移植には向かないと言われた。君も医者ならわかるだろう。親子間でも血液型が違うと移植は難しい。その上、わたしと同じ型の血液はとても稀で使い物にはならないんだ」
「義兄上の血を引いた存在があれば……という話をしています。丈夫な腎臓なら、一つあれば何の問題もなく生活できます。弟妹が兄を助けるのに何の躊躇がありましょう。美談になればこそ、咎めだてするものなどありますまい」
望月の恐ろしい提案に、逡巡しながらも鳴澤は結局同意した。
やがて、鳴澤は芸者遊びをはじめ、ある女を愛人として囲った。
望月は腎臓治療が日進月歩の勢いで発展してゆく経過を知らない。
移植の当日から由美子に植えた腎臓が働き始め、あふれ出る透明な尿に感嘆したその日から、望月の知識は止まっていた。
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