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明けない夜の向こう側 第三章 1 

櫂は華桜陰大学を卒業後、町医者になる道を捨て、そのまま大学病院に籍を置いていた。
高校の時から、何かと目をかけてくれた印南教授の研究室に入り、腎臓外科を目指すことになっていた。

「鳴澤君。二病棟の渡部さんの浮腫の治療はどうなった?」

カルテを片手に、専任教授の印南が、新人医師の櫂に問う。

「絶対安静が必要なんですけど、家業があるのでなかなか難しいみたいです。むくみを取るために利尿剤の助けを借りることになりそうです」

「う~ん。経済的に入院すらやっとのようだからね。できれば、一度透析ができればいいと思っているんだけど、こればかりは強引に進めるわけにはいかないからね」

「早く、保険が適応されれば良いんですけど、一度の透析に大金がかかりますから。一応、話をしたんですけど、総菜屋には無理だって、取り付くシマもありませんでした」

「それが現実だろう」

他の病院の腎臓外科医との合同勉強会でも、高額な腎臓治療を保険で何とか出来ないかという議題は出るものの、まだ現実的ではない。
国庫に予算はなく、海外との差は先の大戦前から開く一方だった。

大学病院の腎臓外科と言っても、実際の仕事は、泌尿器科や内科が扱えるようなものだった。
国内では、まだ腎臓移植など外科的な医療は、倫理的な問題もあって、治療の選択肢としては問題視されることの方が多い。
死体腎移植は、例外的に何例か行われていたが、まだ華桜陰大学では学内に設置された倫理委員会の承認を得られないでいた。

印南教授は患者本位の治療に熱心な上に、革新的な医師だった。
家族も持たず、全てを腎医学の為に捧げていた。
彼から学ぶことは非常に多く、中でも始まったばかりの腎臓透析への熱意は並々ならぬものがあり、櫂もまたこの先に、いつか関わるはずの移植への思いで胸を熱くした。

印南教授の話によると、先の戦時中、米国は腎不全の兵士の為に、簡易式の人工透析器を装備として持参していたという。
戦争中、事故で患部が圧迫されて起こる挫滅症候群による急性腎不全患者が多く発生したのが理由だった。
徴兵した兵士を人とも思わず、ひたすら消耗品のように酷使し続けた日本軍との違いに、改めて呆然としてしまう。

「少しでも、自国の兵士の命を守るために、米国は手を尽くしたという事なんだろうね。腎不全の治療に人工透析器が使われて、彼らは実に兵士の死亡率を50%も下げているんだよ。これを科学の勝利と言わずになんと言うね?無意味な戦争などしないで、そういうものにこそ国費を使うべきだったんだ」と、印南教授は熱く語った。

しかし、現実にはいくつもの問題が山積されていた。
小型軽量化された人工透析器は、現在のものと比べると透析時間が10~15時間以上もかかった。普通の生活の中に浸透させるのは、難しい。
一番の障害は、保険適応外診療となるため莫大な治療費がかかる事だった。
その為、腎臓治療を受けることができる者は、潤沢な資産のある裕福な家庭の者と限られている。まだまだ死病と言われる所以だった。

「それでは教授。失礼します」

「おお、もう休憩時間は終わりか。ご苦労様」

櫂は、印南教授と別れて一つ小さく息をついた。腎臓病で大学病院を訪れる患者は、とても多かったが、手当ての種類は限られている。
ふと風が冷たくなったのに気づいて、空を見上げる。
季節はいつの間にか変わり、空いっぱいに一面の鰯雲が広がっていた。

「風が冷たくなってきたな……」

陸と交わした約束を忘れたわけではない。
まだ陸を鳴澤の家から取り戻したわけではなかった。依然として陸は望月医師の監視下に置かれていた。
望月医師の野望を知る櫂は、あえて陸と距離を置き、注意深く、郁人の主治医である望月医師の動向を探っていた。
鳴澤の本心を知るには、それが意に染まぬ行為でも望月の懐に入る必要があった。

「早く、力をつけないと。待ってろよ、陸」

櫂も師のように、全ての時間を研究に費やしていた。




最終章です。着地点は決まっているので頑張ります。(`・ω・´)

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