露草の記・参(草陰の露)28
「そなた、名は?父の名は?」
粗末な袷(あわせ)を着た少年は、背筋を伸ばし声を張った。兼良の前でも、決して怖気てはいなかった。中々、肝が据わっている。
「実の父は、居りませぬ。わたくしは孤児でありました。」
「ふむ。育ての親は?」
「僧侶でございます。結んだ庵の前に捨てられていたそうでございます。」
「そうか。名を申せ。」
「お上人さまに付けていただいた名前は、出立前に庵に置いて行けと言われましたので、今は名がございませぬ。」
幼いながらも、きちんと教育を受けてきた物言いである。揃えた手に、刀だこがあるのも見えた。どういう出自かはわからないが、剣術もたしなんでいるらしい。
「……目通りを願い出た訳を、申してみよ?」
「それは……。」
背負ってきた小さなつづらを開けて、何やら粗末な風呂敷包みを取り出した。
「藩主さまの弟御、兼良さまに、お返しするようにと、言付かって参りました。」
「わしが、その兼良じゃ。」
「これでございます。長く心のより所であったそうでございますが、身の証しが必要になるだろうと持たせてくださいました。兼良さまを御父上と、お呼びでございました。」
「そうか……。わしを父と呼んだか。」
包みの端から見える目の覚める紺地に、銀箔の青海波、丸い露草の紋に見覚えがあった。
華やかな晴れの装束に魅入った兼良が、懐かしい名前を口走った。
「義元……。生きておったのだな。」
次の間で様子を伺いながら控えていた秀幸が、その言葉に思わずからりと襖を開けた。
「おギギっ!何故、これまで便りも寄越さず……っ!」
大きな声に思わず、ぱっと平伏した少年に我に返って傍らに寄る。
「……大きな声を出して、すまなかった。待ち人があったのだ。勘違いをした。」
少年の存在に困惑する秀幸の後ろから、小さな子供が覗いた。
「ちちうえ。」
「これ、母上の所で待っていよと申したのに。」
「ははうえは、お馬のおけいこはしてくださらぬのです……。」
秀幸によく似た幼子が、涙を浮かべ口をとがらせた。
「わかさま。お馬のおけいこですか?」
幼い嫡男の、人懐っこい性格は母親譲りである。
「うん。わたしと、お馬のおけいこをするか?」
おもちゃの馬を、引いていた。
「はい。御一緒に、遊んでくださりませ。若さまのお馬の、手綱を引きとうございます。」
にっこり笑って頷くと、とことこと寄って来て、少年の膝に座った。
「あ……。もう一つ、お渡しするものがございました。文を預かってございます。」
「文……?」
少年は首から下げた袋をするすると引っ張り出して、側にいた秀幸に書付を手渡した。
急ぎ開く秀幸の目もとが紅潮し、口許が震えた。
「……おギギの、手(筆跡)じゃ……、叔父上……っ。」
*****
震える声で、秀幸が読み上げた。
「此の者は、幼き頃山門に捨てられてゐた子どもにて候
僧侶にせるには惜しき子ども故、お側に置いて被下度御願申上候
義元は、どこにゐても、相馬藩の安泰を念じてをり候 」
<意訳>
この者は、幼い頃に、山門に捨てられていた子です。
僧侶にするには惜しい子どもなので、お側においてやってください。
義元は、どこに居ても、相馬藩が安らかでありますように念じております。
短い文には花押の代わりに、いつか秀幸がふざけて描いたように、名の下に魚の絵が描いてあった。
秀幸の口許は、その絵を認めて薄く笑ったが、やがてひゅっとほとばしる嗚咽と共に、どっと落涙した。
義元の優しい花の笑顔が、まぶたに浮かんだ。
「おギギ……っ……!」
「何故、戻らぬっ……!何故……っ。」
*****
睦まじく戯れる幼子と少年を、慈愛の目で見守りながら兼良が言う。
「秀幸殿。あの童に、良い名を付けてやらねばなりませぬな。」
「はい。」
「育ての僧に、あの者は何と呼ばれていたのであろうな。」
「さあ……。おギギのことですから、幼名の露……とか。」
ふっと振り返り、少年が笑ったところをみると、本当にそう呼ばれていたのかもしれない。
庭に出る幼い和子に付き従う少年は、十年後に元服し、もう一枚の襖絵となる。
「わかさま……。おやすみですか?」
しばらく遊んだ後、新しい家臣の胸元にきゅと掻き付いて、まだ乳の匂いのする幼子は、とろりと眠ろうとしていた。
「まあ、お可愛らしい……。」
すり……と、頬を寄せた。
いつかきっと秀幸とおギギのように、二人はかけがえのない主従になるのかもしれません。
長らく続いたこのお話も、残り一話となりました。
明日もお読みいただければ嬉しいです。 此花咲耶
粗末な袷(あわせ)を着た少年は、背筋を伸ばし声を張った。兼良の前でも、決して怖気てはいなかった。中々、肝が据わっている。
「実の父は、居りませぬ。わたくしは孤児でありました。」
「ふむ。育ての親は?」
「僧侶でございます。結んだ庵の前に捨てられていたそうでございます。」
「そうか。名を申せ。」
「お上人さまに付けていただいた名前は、出立前に庵に置いて行けと言われましたので、今は名がございませぬ。」
幼いながらも、きちんと教育を受けてきた物言いである。揃えた手に、刀だこがあるのも見えた。どういう出自かはわからないが、剣術もたしなんでいるらしい。
「……目通りを願い出た訳を、申してみよ?」
「それは……。」
背負ってきた小さなつづらを開けて、何やら粗末な風呂敷包みを取り出した。
「藩主さまの弟御、兼良さまに、お返しするようにと、言付かって参りました。」
「わしが、その兼良じゃ。」
「これでございます。長く心のより所であったそうでございますが、身の証しが必要になるだろうと持たせてくださいました。兼良さまを御父上と、お呼びでございました。」
「そうか……。わしを父と呼んだか。」
包みの端から見える目の覚める紺地に、銀箔の青海波、丸い露草の紋に見覚えがあった。
華やかな晴れの装束に魅入った兼良が、懐かしい名前を口走った。
「義元……。生きておったのだな。」
次の間で様子を伺いながら控えていた秀幸が、その言葉に思わずからりと襖を開けた。
「おギギっ!何故、これまで便りも寄越さず……っ!」
大きな声に思わず、ぱっと平伏した少年に我に返って傍らに寄る。
「……大きな声を出して、すまなかった。待ち人があったのだ。勘違いをした。」
少年の存在に困惑する秀幸の後ろから、小さな子供が覗いた。
「ちちうえ。」
「これ、母上の所で待っていよと申したのに。」
「ははうえは、お馬のおけいこはしてくださらぬのです……。」
秀幸によく似た幼子が、涙を浮かべ口をとがらせた。
「わかさま。お馬のおけいこですか?」
幼い嫡男の、人懐っこい性格は母親譲りである。
「うん。わたしと、お馬のおけいこをするか?」
おもちゃの馬を、引いていた。
「はい。御一緒に、遊んでくださりませ。若さまのお馬の、手綱を引きとうございます。」
にっこり笑って頷くと、とことこと寄って来て、少年の膝に座った。
「あ……。もう一つ、お渡しするものがございました。文を預かってございます。」
「文……?」
少年は首から下げた袋をするすると引っ張り出して、側にいた秀幸に書付を手渡した。
急ぎ開く秀幸の目もとが紅潮し、口許が震えた。
「……おギギの、手(筆跡)じゃ……、叔父上……っ。」
*****
震える声で、秀幸が読み上げた。
「此の者は、幼き頃山門に捨てられてゐた子どもにて候
僧侶にせるには惜しき子ども故、お側に置いて被下度御願申上候
義元は、どこにゐても、相馬藩の安泰を念じてをり候 」
<意訳>
この者は、幼い頃に、山門に捨てられていた子です。
僧侶にするには惜しい子どもなので、お側においてやってください。
義元は、どこに居ても、相馬藩が安らかでありますように念じております。
短い文には花押の代わりに、いつか秀幸がふざけて描いたように、名の下に魚の絵が描いてあった。
秀幸の口許は、その絵を認めて薄く笑ったが、やがてひゅっとほとばしる嗚咽と共に、どっと落涙した。
義元の優しい花の笑顔が、まぶたに浮かんだ。
「おギギ……っ……!」
「何故、戻らぬっ……!何故……っ。」
*****
睦まじく戯れる幼子と少年を、慈愛の目で見守りながら兼良が言う。
「秀幸殿。あの童に、良い名を付けてやらねばなりませぬな。」
「はい。」
「育ての僧に、あの者は何と呼ばれていたのであろうな。」
「さあ……。おギギのことですから、幼名の露……とか。」
ふっと振り返り、少年が笑ったところをみると、本当にそう呼ばれていたのかもしれない。
庭に出る幼い和子に付き従う少年は、十年後に元服し、もう一枚の襖絵となる。
「わかさま……。おやすみですか?」
しばらく遊んだ後、新しい家臣の胸元にきゅと掻き付いて、まだ乳の匂いのする幼子は、とろりと眠ろうとしていた。
「まあ、お可愛らしい……。」
すり……と、頬を寄せた。
いつかきっと秀幸とおギギのように、二人はかけがえのない主従になるのかもしれません。
長らく続いたこのお話も、残り一話となりました。
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