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露草の記・参(草陰の露)29 

国境に横たわる、険しい山の尾根を越えて行く、一つの黒い影があった。

青い月影に浮かぶのは、剃髪し藁草履で夏草を踏み分ける、墨染めの衣を着た粗末な形(なり)をした僧である。

ふと振り返ったあじろ笠から覗く、涼しげな目元と玲瓏な横顔は、朽ちた高札の尋ね人に似ている気がする。

若い僧侶は健脚で、滑るように早足で、あっという間に星の降る道を南へと進んでゆく。
連れはなく、ただ一人の道行きである。
闇夜に夜目が利くのか、悪路も難なく躊躇せずに進んでゆく。

擦れた襟元に覗く、朱赤の飾り紐に見覚えがあった。
月光を弾く青白い頬は、凛と思いつめた気高さを持ち、どこまでも孤高だった。
時折、誰かが呼ぶのが聞こえる気がするのか、若い僧は幾度か振り返って細いため息をついた。

神仏に誓った約束は、胸に刻んである。
命がけで守った面影が目蓋裏で輝き、変わらぬ標となって一人ゆく僧を励ました。

そして、いつしかその端整な痩躯の僧侶の姿は、深い森の闇に飲まれて見えなくなった。

*****

森の奥でミミヅクがほうほうと鳴く。

住む者のなくなった山の上の草庵は、いつしか朽ちてなくなるだろう。
そこに、寡黙な若い僧侶が、捨て子と暮らして居たという痕跡も、見事に泡沫と消えてゆく。
やっと無人の庵を見つけた馬上の尋ね人は、崩れ落ちた草屋根に肩を落とし、やがて諦めて、愛し子の待つ北へと踵を返すだろう。

*****

これよりずっと後年、九州の秋月藩では、日本で初めての種痘が緒方春朔の手によって行われている。
エドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功より、6年も早い時期であった。

名も無き忍びの足跡は、どこにも残されていない。

風の舞う双馬藩の夏の野山に、庭の隅に、青い露草は目立たぬようにひっそりと咲く。

儚くも一途な忍び草であった。





本日もお読み下さりありがとうございました。
後ほど、【あとがき】もアップします。  此花咲耶

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