小説・初恋・22
・・・その頃。
奏は、颯の声の届かない湖西の自室で、薄闇に白蝋の胸を晒していた・・・
無音の部屋に、絹の擦れる音だけが響く。
はだけた絹のシャツに、小姓の白雪が焚き染めた香が、匂いたつ。
階下の喧騒とは完璧に隔たれた空間で、どこから入ってきたものか西洋ランプの焔に、逃げ場をなくした羽虫がじじと焼かれていた。
ぽとりと、裏向きに息絶えた羽虫に、まるで自分と同じだと思う。
労働とは無縁の、老人班の浮いた繊細な指が、奏の胸を撫で上げ、顎をなぞった。
奏の目尻に溜まった涙を、静かに掬い上げると訝しげに問う。
「何を泣く?」
「奏一郎・・・この国の全てを、お前にやろうというのに。」
「その名は・・・亡くなった父上のものです・・・」
誰に言うでもなく、小さく口にした。
今や祖父は、とうに亡くなった父と自分を、常に混濁させていた・・・・
このままゆっくりと、狂気に侵された老人の思うように切り刻まれて、朽ち果てて逝くのだろうと思っていた。
いつか、しとどに腐った肉塊となって・・・
そのときが、一刻でも早く来ればいいと思う。
力ない拒絶の声は闇に解け、涙は褥が吸った。
ゆるゆると巻きついた指が、もがく奏を真綿でしめるように追い詰めてゆく。
粟立つ肌に冷たい汗が流れ、意思とは関係なく反応し、滴が零れ落ちるのが辛かった。
「ぁ・・・あ・・・ぁっ・・・」
「白雪。」
背徳の吐精の後、湖西が奏の小姓を呼んだ。
姿を潜めて扉の向こうに控えていた小姓が、湯桶を携えて影のように入ってくる。
「拭いてやれ。」
「客人の、見送りをせねばな。」
奏と目線を合わせぬように、白雪は静かに慣れた手つきで全身を清めるように拭いた。
息をつめて、ただ淡々と・・・。
素肌に直に羽織ったシャツに、手をかけようとしたとき、奏は白雪の手を軽く払った。
「いい・・・自分でするから・・・」
退出しかけた湖西が訝しげに、一瞬奏を振り返った。
奏の何かが違うと、感じたようだった。
「・・・親指と人指し指をホールの側に迎えに行くように持っていって・・・
釦の端っこが来たのを捕まえる。」
「そのまま、離さずに持って・・・」
「指で釦の横を、反対側に押す・・・」
小さな声で、歌うように何度も繰り返す奏の声に、白雪は思わず洟をすすった。
「白雪。何を泣く・・・?」
奏には、自分を哀れに思って泣く、白雪の涙の意味が分からない。
どうして今、自分の頬が濡れているのかも・・・
奏がこうして泣いたのも、初めてだった。
奏は祖父が優しく自分を抱き寄せる度、自分の精神が、徐々に蝕まれてゆくのを理解していた。
胸の重石は日々重さを増し、息をするのさえ苦しかった。
この「凝り」に全て囚われた時、人ではなくなるのかもしれないと思う。
高いカラーとしなやかなリボンの下に、背徳の紅い吸痣の痕を隠しながら、ふと脳裏に浮かんだのは漢詩に合わせて粛々と舞う、颯の姿だった。
・・・何度やっても、一人で上手くリボンは結べない。
ふと・・・。
扉が開き、颯が手を貸してくれる気がする。
「ほら。タイは難しいから、今日は結んでやろう。」
「顎を上げて。」
何故、そう思ったのか分からない。
思いがけず・・・嗚咽が、漏れた・・・
奏は、颯の声の届かない湖西の自室で、薄闇に白蝋の胸を晒していた・・・
無音の部屋に、絹の擦れる音だけが響く。
はだけた絹のシャツに、小姓の白雪が焚き染めた香が、匂いたつ。
階下の喧騒とは完璧に隔たれた空間で、どこから入ってきたものか西洋ランプの焔に、逃げ場をなくした羽虫がじじと焼かれていた。
ぽとりと、裏向きに息絶えた羽虫に、まるで自分と同じだと思う。
労働とは無縁の、老人班の浮いた繊細な指が、奏の胸を撫で上げ、顎をなぞった。
奏の目尻に溜まった涙を、静かに掬い上げると訝しげに問う。
「何を泣く?」
「奏一郎・・・この国の全てを、お前にやろうというのに。」
「その名は・・・亡くなった父上のものです・・・」
誰に言うでもなく、小さく口にした。
今や祖父は、とうに亡くなった父と自分を、常に混濁させていた・・・・
このままゆっくりと、狂気に侵された老人の思うように切り刻まれて、朽ち果てて逝くのだろうと思っていた。
いつか、しとどに腐った肉塊となって・・・
そのときが、一刻でも早く来ればいいと思う。
力ない拒絶の声は闇に解け、涙は褥が吸った。
ゆるゆると巻きついた指が、もがく奏を真綿でしめるように追い詰めてゆく。
粟立つ肌に冷たい汗が流れ、意思とは関係なく反応し、滴が零れ落ちるのが辛かった。
「ぁ・・・あ・・・ぁっ・・・」
「白雪。」
背徳の吐精の後、湖西が奏の小姓を呼んだ。
姿を潜めて扉の向こうに控えていた小姓が、湯桶を携えて影のように入ってくる。
「拭いてやれ。」
「客人の、見送りをせねばな。」
奏と目線を合わせぬように、白雪は静かに慣れた手つきで全身を清めるように拭いた。
息をつめて、ただ淡々と・・・。
素肌に直に羽織ったシャツに、手をかけようとしたとき、奏は白雪の手を軽く払った。
「いい・・・自分でするから・・・」
退出しかけた湖西が訝しげに、一瞬奏を振り返った。
奏の何かが違うと、感じたようだった。
「・・・親指と人指し指をホールの側に迎えに行くように持っていって・・・
釦の端っこが来たのを捕まえる。」
「そのまま、離さずに持って・・・」
「指で釦の横を、反対側に押す・・・」
小さな声で、歌うように何度も繰り返す奏の声に、白雪は思わず洟をすすった。
「白雪。何を泣く・・・?」
奏には、自分を哀れに思って泣く、白雪の涙の意味が分からない。
どうして今、自分の頬が濡れているのかも・・・
奏がこうして泣いたのも、初めてだった。
奏は祖父が優しく自分を抱き寄せる度、自分の精神が、徐々に蝕まれてゆくのを理解していた。
胸の重石は日々重さを増し、息をするのさえ苦しかった。
この「凝り」に全て囚われた時、人ではなくなるのかもしれないと思う。
高いカラーとしなやかなリボンの下に、背徳の紅い吸痣の痕を隠しながら、ふと脳裏に浮かんだのは漢詩に合わせて粛々と舞う、颯の姿だった。
・・・何度やっても、一人で上手くリボンは結べない。
ふと・・・。
扉が開き、颯が手を貸してくれる気がする。
「ほら。タイは難しいから、今日は結んでやろう。」
「顎を上げて。」
何故、そう思ったのか分からない。
思いがけず・・・嗚咽が、漏れた・・・
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