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小説・初恋・25 

如月湖西は江戸末期、動乱のさなか、困窮する多数の公達の中の一人だった。


その日食べるものにも困るほどの貧困にさいなまれ、高い自尊心は苦しみもがいていた。


白湯だけ飲んで、眠りに付く日が何日も続くと次第に少量の食事で我慢できるようになる。


邸宅と言っても、雨露をしのぐのも怪しい代物で、実際雨の降る日は悲惨だった。


年代物の御簾も、糸が切れさざらになり座布団の表もいつ変えたかわからない。

そんな日々の中、雅な遊びと連歌を作るしか能の無い父は、少ない家財と土地を徐々に売り払った挙句の果てに、息子を売り払うことを思いつく。


父の知り合いの豪商の竹野が、湖西様とのご縁談をお受けしたいと娘を連れてきたとき、相手の面相に立ちすくんだ。


顔中天然痘の痕が残り、ひどい有様の娘は、どうかあばたが、元通りになりますようにと願を掛けに行って、美しい公達の奉納舞を見たのだという。


竹野は、如月の宮の貧しい日々を指摘して、持参金を積み上げた。


金に糸目をつけず、不憫な娘の願いを聞いてやりたかったのだろう。


屈辱で臓腑が、煮えたぎるようだった。


宮中一の類希なる美男子、今業平と、容姿を称える周囲の賛美の声も、やがて軽い侮蔑を含むようになる。


参内用の真新しい黒羽二重の衣冠と引き換えに、粉々に崩れ去ろうとする自我をかき集め、唇を色をなくすほどかみ締めて、湖西は白無垢をまとった田舎娘の手を取った。


秘密で言い交わした、愛しい東宮つきのおすべらかしの女官は今夜も逢瀬の喜びに震えながら、湖西の訪れを待っているだろう。


・・・短い別れの文を受け取った彼女は、泣きながら誰かの囲い人になったと聞いた。

何も思い通りにならない閉塞と苛立ちの日々の中、鉄漿と白粉を塗り置き眉をした父は、湖西のおかげで一族は安泰じゃと喜んだ。


まるで遊郭に身売りしたように、湖西は驚くほどの大金を手に入れ、役職すらもその金で買ったのだ。


表から見えない自尊心だけが、崩れ去った。


当時、貧しい貴族は勝手にお役目の売買をし、お上も見て見ぬ振りをしていた。


そのお上すら時代の片隅で、公家諸法度に拘束され、武士という名の無粋な生き物に、長く足蹴にされ続けてきた。

事実、王城を護衛する幕府の武士が、これでは余りにお気の毒と、夕餉に自分の扶持から塩鮭を届けたほどだった。


次々に持参金で買った役目は従4位になり、お上のお側にあがることまで許された湖西は、お流れに預かり初めて食した塩鮭の美味さに、はらはらと涙した。


・・・自分に見合った地位を手に入れ、のし上がろう・・・


腹がすいて眠れない日を過ごす惨めさに、過去の事として引導を渡すのだ。


どんな手を使っても。


湖西は擦り切れた畳表と、自宅の抜けた屋根に誓った。

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