青い海の底の浄土・1
一族郎党、平家のものはそろって都からはるばる落ちてきたが、とうとう都人は進退窮まって、皆、決済の覚悟を決めていた。
守りを固める周囲の船が次々と敵の手に落ち、轟々と荒武者の名乗りが聞こえてくる。
此処でつかまっては、どんな辱めを受けるかもしれないと、女達は薄物を深く被ってうつむき、行く末を思ってかたかたと怯えていた。
蛮勇とどろく恐ろしい坂東武者に、都のたおやかな女達がどのような目に合わされるか、二位尼は考えただけで戦慄した。
幼い帝は泣き喚いたりすること無く、二位尼にこれから行く場所を聞き、一人静かに唐船のへりからこれから自分が沈み行くさざ波の立つ水面を見つめていた。
海の底に、都があると婆は言う。
白く逆巻く波間の向こうには、本当に、争いのない極楽浄土が待っているのだろうか。
「おばばさま。海の水は、冷とうはなかろうか?」
たおやかな女房達に囲まれた、幼い主上(おかみ)が、ふと顔を上げ不安そうな瞳を泳がせた。
世が世ならば大勢にかしずかれ、宮殿の奥深くでひそと暮らしているはずであった。
強い潮風になぶられる髪が、真白い額に張り付いている。
「何の。この婆もご一緒致しますれば、冷たいのは、一時の事でございまするよ。」
二位尼は、何とか作ったこわばった微笑を向けると、孫である主上(おかみ)を引き寄せた。
主上の悲しげな儚い笑みは、母、建礼門院の美しい面によく似ている。
聡明な瞳が、腕の中で二位尼を見つめた。
「もう、行くのですか?おばばさま。」
「はい、主上(おかみ)。この檀之浦が、今生のお別れの場所でございます。」
その言葉に堰を切ったように、安徳天皇を取り囲んだ女達がさめざめと泣く。
思えば、栄華を極めた平家の頭領が、熱病で倒れてから少しずつ様子は変わって来ていた。
栄枯盛衰は世の習いなれど、坂を転がる雪塊のように、櫛の歯が抜けるように、平家一門の味方は日々少なくなってゆく。
水面を覆う船団も、色とりどりの鎧を着けた大勢の武者を乗せて、ここから陣を立て直すはずだった。
だが今や、平家の赤い旗印は次々に源氏の白旗に蹴散らされ、全ては絵にかいた虚しい戯画のようになってしまっている。
古くから深い縁で結ばれた、頼みの熊野水軍さえ、源氏に寝返り、指揮官、平知盛は茫然とした面持ちで、なす術もなく襲い来る大船団の影を見つめていた。
「わたしの上巳の節句は、海の宮で行うのか?」
ふと、悲しげな瞳で、帝が問う。
慌しい都落ちに、頑是無い帝が楽しみにしていた、今年の桃の節句もまだ済ませぬままだった。
「主上(おかみ)は天子とお生まれになりましたけれど、今生の御命運は最早これまでに、尽き果ててお終いになりました。」
諭すように、尼が言う。
「辛く厭わしいこの世を捨てて、さあ、極楽浄土へと参りましょう。海の都にも、きっと、目映い珊瑚の桃花が咲いておりますよ。上巳の節句は、美しい海の宮殿でお祝いいたしましょう。」
水面までは遠く、船べりから飛び込むには、幼い帝には躊躇われたが、幼いながらに尽きた天運を感じているようであった。
「おばばさま。・・・わたしの天児(あまがつ)が見当たらぬ。天児(あまがつ)はどこへ行ったのであろ?」
目を泳がせて、傍らに在るはずの小さな人形を探した。
二位尼は、入水の仕度に余念が無い。
神璽(八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を抱え、眼前に恭しく捧げた。
八咫鏡(やたのかがみ)を箱に入れ、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を腰に差し、海の底にある浄土へと旅立つ支度は整った。
主上の天児は、先に海の底の浄土へ行ったのではないかと、母、建礼門院徳子が励ますように諭し、愛するわが子の側に寄る。
「あの子に、わたくしの側に居よと、言い置いたのに・・・」
あきらめて、小さな両の手に数珠を置くと、言われるままに念仏を唱える安徳天皇は、二位尼の懐に抱かれて、流れの速い潮流に、幼子らしく母の名を呼び呑まれてゆく。
「母さまぁ・・・ばばさまぁ・・・」
安徳天皇、僅か八歳の崩御であった。
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「ずっと君は待っていた」と、時代は違いますし、ほとんど話がかぶるところはありませんが、海神だった頃のオロチの話です。 此花
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