おとうと・2
鴨川総合病院は、天音の叔父であり詩鶴の父である、澤田聡(さとし)の持ち物だった。
医者でありながら最愛の妻を手遅れの胃がんで亡くした傷心の弟を助けるために、米国の大学病院で腕の良い外科医として経験を積んでいた天音の父、澤田悟(さとる)は帰国した。
天音の母は気位の高い女性で、京都の病院へ来てからというものどこか神経質に落ち着かなかったように思う。
いつもいらいらと不機嫌で、天音や周囲の者はまるで腫れ物に触るように様子を伺った。
天音が詩鶴をかわいがるのを、何故か母はひどく毛嫌いした。
その憎しみの根源が分からず、天音は母が荒れているときは途方に暮れて、ただ感情が静まるのを待つばかりだった。
母の苛立ちは、いつも詩鶴にだけ向かっていたように思う。
以前にも可哀想なことがあった。
少しでも母親に詩鶴を良い子だと思ってもらえるように、天音は母親の誕生日を詩鶴に教えたのだ。
「おばさまの、お誕生日?」
「ああ。詩鶴も、何かプレゼントあげる?」
「うん。ぼく、お花の首飾り作る!」
「じゃあ、病院の裏側の田んぼのあぜ道に行こうか?」
「うん!」
「お兄ちゃん。ぼくね、保育園で一番、長いのを作れるんだよ。
「そうか、すごいな詩鶴。」
後になって、天音は深く後悔する。
二人に大人の事情が分かるはずもなく、その日を境に5歳になったばかりの詩鶴の顔からは笑顔が消えた。
その日、詩鶴ははにかみながら、畑のシロツメクサで作った花冠と首飾りを、おずおずと差し出した。
「おばさま、お誕生日おめでとう。」
「おめでとう、ですって?」
「何がめでたいの?こんなもの!」
天音の母は詩鶴の心づくしを払いのけたばかりか、ヒールのかかとで踏みしだいた。
驚きのあまり大きな目を見開いたまま、詩鶴は言葉を失って立ちつくし呆然としていた。
足元には、心を込めて作った花の残骸が散らばっていた。
涙を零す暇も与えないような激しい憤りに、傍にいた天音の胸にも何故…と疑問が渦巻いた。
「お母さん。詩鶴を叱らないで。ぼくがお母さんのお誕生日を教えたんだ。」
「詩鶴はただ、お母さんに喜んでもらおうと思っただけだよ。こんな・・・」
その時の母の視線を天音は一生忘れない。
いたいけな子供に向けた憤怒の表情は、天音が思わず後ずさりするほど烈しい物だった。
天音には、何とかそこから詩鶴をそっと連れ去ることしかできなかった。
涙を浮かべた可愛らしい天使は、そこから先もいつも悲しい目にばかりあっていたように思う。
幼い詩鶴を守ってやりたかったが、あまりに若い天音は無力だった。
*************************
「天音お兄ちゃん・・・」
「・・・ぼく、わるい子かなぁ・・・」
踏みしだかれた、花冠の残骸を悲しげに詩鶴は見つめていた。
「詩鶴が悪い子のわけないだろう?」
「でも・・・でもね・・・、おばさまは、ぼくをきらいね・・・?」
鈴を張ったような大きな目を向けて、詩鶴は天音に出せない答えを待っていた。
「どうしてかなぁ・・・」
詩鶴は誰に問うでもなく、一人理不尽な嵐に耐えていた。
宥める言葉を失って、天音は仕方なく小さな詩鶴を背負うと花の下を散歩した。
病院経営に忙しい父親は、妻に似た詩鶴を眺めるのが辛かったのだろう。
いつも詩鶴の世話は、家政婦任せにしていた。
たった一人、誰も話し相手のいない食卓で、詩鶴は一人で食事をとった。
受験勉強で忙しい天音と過ごすわずかな時間だけが、詩鶴の安らぎだった。
「詩鶴・・?」
いつしか小さな寝息が聞こえる。
背中で重くなってきた温もりのある存在に、天音はほっと息をついた。
満開の桜の下で、同じ顔の儚い女性に託された少年を天音はそっと前に滑らせ、抱きなおした。
閉じた目元に、涙の跡がある。
柔かい頬に唇を寄せ舐めたら、甘い塩の味がした。
「ごめんね、詩鶴・・・。」
********************************
拙作「新しいパパができました」の前の話になります。
詩鶴が生まれたところから、お話は始まります。
よろしくお願いします。
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医者でありながら最愛の妻を手遅れの胃がんで亡くした傷心の弟を助けるために、米国の大学病院で腕の良い外科医として経験を積んでいた天音の父、澤田悟(さとる)は帰国した。
天音の母は気位の高い女性で、京都の病院へ来てからというものどこか神経質に落ち着かなかったように思う。
いつもいらいらと不機嫌で、天音や周囲の者はまるで腫れ物に触るように様子を伺った。
天音が詩鶴をかわいがるのを、何故か母はひどく毛嫌いした。
その憎しみの根源が分からず、天音は母が荒れているときは途方に暮れて、ただ感情が静まるのを待つばかりだった。
母の苛立ちは、いつも詩鶴にだけ向かっていたように思う。
以前にも可哀想なことがあった。
少しでも母親に詩鶴を良い子だと思ってもらえるように、天音は母親の誕生日を詩鶴に教えたのだ。
「おばさまの、お誕生日?」
「ああ。詩鶴も、何かプレゼントあげる?」
「うん。ぼく、お花の首飾り作る!」
「じゃあ、病院の裏側の田んぼのあぜ道に行こうか?」
「うん!」
「お兄ちゃん。ぼくね、保育園で一番、長いのを作れるんだよ。
「そうか、すごいな詩鶴。」
後になって、天音は深く後悔する。
二人に大人の事情が分かるはずもなく、その日を境に5歳になったばかりの詩鶴の顔からは笑顔が消えた。
その日、詩鶴ははにかみながら、畑のシロツメクサで作った花冠と首飾りを、おずおずと差し出した。
「おばさま、お誕生日おめでとう。」
「おめでとう、ですって?」
「何がめでたいの?こんなもの!」
天音の母は詩鶴の心づくしを払いのけたばかりか、ヒールのかかとで踏みしだいた。
驚きのあまり大きな目を見開いたまま、詩鶴は言葉を失って立ちつくし呆然としていた。
足元には、心を込めて作った花の残骸が散らばっていた。
涙を零す暇も与えないような激しい憤りに、傍にいた天音の胸にも何故…と疑問が渦巻いた。
「お母さん。詩鶴を叱らないで。ぼくがお母さんのお誕生日を教えたんだ。」
「詩鶴はただ、お母さんに喜んでもらおうと思っただけだよ。こんな・・・」
その時の母の視線を天音は一生忘れない。
いたいけな子供に向けた憤怒の表情は、天音が思わず後ずさりするほど烈しい物だった。
天音には、何とかそこから詩鶴をそっと連れ去ることしかできなかった。
涙を浮かべた可愛らしい天使は、そこから先もいつも悲しい目にばかりあっていたように思う。
幼い詩鶴を守ってやりたかったが、あまりに若い天音は無力だった。
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「天音お兄ちゃん・・・」
「・・・ぼく、わるい子かなぁ・・・」
踏みしだかれた、花冠の残骸を悲しげに詩鶴は見つめていた。
「詩鶴が悪い子のわけないだろう?」
「でも・・・でもね・・・、おばさまは、ぼくをきらいね・・・?」
鈴を張ったような大きな目を向けて、詩鶴は天音に出せない答えを待っていた。
「どうしてかなぁ・・・」
詩鶴は誰に問うでもなく、一人理不尽な嵐に耐えていた。
宥める言葉を失って、天音は仕方なく小さな詩鶴を背負うと花の下を散歩した。
病院経営に忙しい父親は、妻に似た詩鶴を眺めるのが辛かったのだろう。
いつも詩鶴の世話は、家政婦任せにしていた。
たった一人、誰も話し相手のいない食卓で、詩鶴は一人で食事をとった。
受験勉強で忙しい天音と過ごすわずかな時間だけが、詩鶴の安らぎだった。
「詩鶴・・?」
いつしか小さな寝息が聞こえる。
背中で重くなってきた温もりのある存在に、天音はほっと息をついた。
満開の桜の下で、同じ顔の儚い女性に託された少年を天音はそっと前に滑らせ、抱きなおした。
閉じた目元に、涙の跡がある。
柔かい頬に唇を寄せ舐めたら、甘い塩の味がした。
「ごめんね、詩鶴・・・。」
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