おとうと・9
「結婚してください。詩津さん。」
「僕の育って来た環境は今更どうしようもないけど、優しいあなたが居てくれるだけで、僕はこの先ずっと幸せでいられます。」
「新しい人生を、これから一緒に生きよう、詩津さん。」
哀しげに微笑む詩津を、聡は時間をかけてやっと手に入れた。
「僕が幸せになるために、あなたが必要なんです。詩津さん。」
「だから・・・どこへもいかないでください。お願いだから。」
悟に凌辱された身を恥じて、詩津が立ち去ろうとするのを見越し、聡は必死だった。
嗚咽に阻まれて、最後は言葉になっていなかったと思う。
詩津は、何度断っても日ごと顔を見せ、曇りのない本心を告げ続ける聡の手を取った。
桜の花弁が祝福のように舞い落ちる中、花の精はそっと聡の胸に額を当てた。
「聡さん。詩津をあなたの奥さんにしてください。」
「詩津もあなたが、好きです。」
詩津がそう告げた時、聡はやっと手に入った最愛の人を抱きしめ嬉し涙にくれた。
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アメリカから帰国した兄は、総合病院への思いが高じるあまり、どこか頑なになって行ったように思う。
生まれた時から、旧家である澤田家の期待を一身に背負い何の自由もなかった兄。
その、唯一最後の砦のようだった医師としての自尊心を図らずも打ち砕いてしまったのは、弟である聡だった。
柔和な微笑みを浮かべているが、自分の欲しい物をあっさりと手に入れた弟に、内心は割り切れないものを抱えていた。
昔から、表向き仲の良い兄弟のようにふるまいながら、悟は弟に一線を引いていた。
全て親に敷かれたレールを走ってきた悟と違って、幼い頃から屈託なく自由にふるまう弟の方を両親は愛した。
悟は利口な子供だったから、就学前から兄弟の立ち位置に違和感を持っていた。
大人の目のないところで、キックスケーターに乗り転んでしまったとき、たまたま傍にいた兄は父に頬を張られた。
お前が付いていながら、怪我をさせるなんてと訳も利かずに兄を責め、聡の小さな傷口には院長自ら、絆創膏を貼った。
あれから悟の心の深い場所に鋭い棘は立ちこみ、そのまま癒えることはなかった。
母や家政婦や、お抱え運転手まで誰もが天真爛漫な聡を愛した。
何故なんだろうと、素朴な疑問がわいたが長男ゆえの期待だと、割り切った。
試験の点数が少しでも悪かったり、首位から転落したりすると父は悟と食事の時に口も聞かなくなる。
読みたい本も読まず、作りかけの帆船の模型も封印して死に物狂いの悟の努力を誰もわかろうとはしなかった。
天才肌ではなかった悟が、上位の成績を維持するには文字通り血を吐くような努力が必要だった。
それを知っていたのは、隣の部屋の弟だけだ。
「お父さん。兄さんがどれだけ毎日頑張っているのか、僕は知っています。前期試験でたった一度、首位から落ちたかっらて、話しかけるのを無視するなんてあんまりです。」
「そうか、聡は優しいな。おまえは患者を思いやれるいい医者になれるだろう。」
「おまえは、悟よりも頭がいい。放っておいても道を切り開くだろう。しっかりやりなさい。」
廊下の角で、父が聡に向ける言葉をぼんやりと聞いた。
「だがな、あいつは、澤田家の長男だから、おまえとは背負っているものが違うのだよ。」
「兄さんを可哀想だと思うなら、成人したらせいぜい助けてやることだな。」
余りに冷たい父に抗議する弟をどこか冷めた見で見ながら、通り過ぎた。
やり切れなさを代弁するのが弟だと言うだけで、屈辱的だった。
廊下の片隅で弟を待ち、悟は一方的に詰った。
「僕を勝手に貶めるな!お前などに何が分かる!同情だけで医者になれるなら、誰も苦労などするものか。」
「最高学府に良い成績で入り、お父さんの望み通り僕の手で病院をでかくしてみせる。何も知らないくせに、余計なことを言うな!」
「兄さん!僕はただ、寝食も忘れて勉強に励む兄さんが気の毒で・・・!」
「だって、そこまでしなくても兄さんは十分・・・あっ!」
悟は弟を誰も入らない仏間に引きずり込んだ。
「うるさい!そうやって余裕のある優しさを向ける、その態度が気に入らないんだ。おまえは能天気に誰にでも好かれていればいいんだ!」
「兄さん!何も知らないって何?僕にとって、子供のころからいつだって兄さんは自慢の兄さんなんだよ。」
ああ・・・だめだ。
これ以上、こいつの言葉を聞くとおかしくなる・・・
真っさらで、穢れていなくて、世の中がお日様の光で溢れているのだ。
悟は悟で居るために、心の中の重い扉にしっかりと鍵を掛けていたつもりだったが、足を払うとその場に聡を引き倒した。
「・・・あっ!」
「幸せな顔だな。何の不幸にもあったことの無い顔だ。」
「兄さん・・・?」
馬乗りになった聡の顔が、不思議でたまらないと言う表情を下から浮かべていた。
「多少でも、血のつながりがあると言うなら、兄と言ってもいいだろうな。」
「どういうこと・・・?」
両親がひた隱しにしてきた真実を、悟は告げた。
「おまえは本妻の子供で、僕は妾腹だってことさ。」
「嘘だ・・・。」
「長い間、実子に恵まれなかった親父は、外に子供を作ったんだよ。そうしたら、その一年後に本妻が身籠ったのさ。これまで、ずっと妊娠どころか流産の経験もなかったというのに。」
「本当は、お前にみんなやりたいのに、僕を長男にした以上、今更そんなことはできないだろう?だから、自滅するのを待ってるんだ、みんな。」
「まさか…誤解だよ、にいさん。」
兄は顔を落とし、弟の柔らかな唇をなぞった。
「そう思ってるのは、お前だけだろう?みんな、お前を愛するんだ。みんな、お前だけが好きなんだ。お前が、居なかったらお父さんはぼくの方を向く。お前がいるから・・・僕には居場所がない!」
抑え込まれた弟の身体が、突然、ひくっと震えた。
兄は身体をずらし、信じられない思いで顔を覆った弟を眺めた。
「ごめん…ね、兄さん。」
「ぼく、何も知らなくて…でも、僕はずっと兄さんだと思ってる。僕には、兄さんはたった一人だ。うっ・・・ゎああーーーん・・・っ!」
「聡。」
かきついた弟に倒されて、兄は自分がただ分かって欲しかったのだと知る。
初めて気が付いた自分の気持ちに悟は呆然とし、やがて気を取り直して澄ました顔を作ると自室にこもった。
兄、悟の思春期の柔らかい心は、深く立ちこんだ棘でいつも血を流していた。
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余りに酷い奴だと、こんなところもあるんですと、書いて置きたくなってしまう。
例え、どんな理由があっても許されるわけではないのですけれど・・・
ちょっと寄り道してしまいました。
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