おとうと・3
天音が全てを知るには、まだしばらくの時を擁した。
10歳の年の差はどうしようもなく、受験を控えた天音は詩鶴と過ごす時間が減ってゆくのを気にしていた。
全国区の進学校、州灘高校でも常に上位の成績を保持する天音に周囲の期待は大きく、父親のように優秀な外科医師になる道を嘱望されていると感じていた。
「今度もA判定なのね。あなたはお祖父様に似たのね。お母さん、鼻が高いわ。」
気位の高い母は、天音が自分の理想通りに成長していると喜び、その愛はすべてわかりやすく過剰に注がれていた。
負担に思うこともあったが、それでも母の機嫌を損ねるわけには行かなかった。
母の怒りは、なぜか常に詩鶴に向かうから・・・。
「お母さん。この分だと医学部は大丈夫のようです。」
「僕の数学好きは、お母さんに似たんですね、きっと。正直、苦にならなくて助かってます。」
天音は自分に似た顔を覗き込むと、母の自尊心をくすぐった。
元来男子は、母に似るのだ。
天音の成績に母は満足し、その姿に息子は安堵する。
自分が期待に応えてさえいれば、母は夕凪のように穏やかでいられるのだ。
「お母さん。時間大丈夫ですか?笹塚のおばさまは、きっと首を長くしてお待ちですよ。」
「そうだわ、もう行かないと。今日は帰りも遅くなりますからね。お父さんにも伝えておいて。」
「ええ。」
めかし込んだ母は、車中の人となった。
歌舞伎を観劇するのだという。
天音は、めったに出かけようとしない母が出かけるのを待っていた。
「詩鶴!」
広い母屋のエントランスから声を掛けると、階段の上から小さな詩鶴の顔がぴょこんと覗いた。
「天音お兄ちゃん・・・?」
天音の背後に視線を廻らせる詩鶴に、手を大きく広げて声を掛けた。
「おいで!おばさまは、お出かけしてしまったよ。」
「お兄ちゃんと、一緒に遊ぼう!」
にこにこと大好きな天音が、詩鶴に向かって微笑む。
「天音お兄ちゃん!」
詩鶴は階段を4,5段残して、胸に飛び込んできた。
どんと尻もちをついた、天音の懐に居る詩鶴とこうして話をするのも二週間ぶりくらいだ。
「おっとーー!詩鶴、元気だったか?」
同じ敷地に住んで居ながら、殆ど言葉も交わせない二人だった。
子供にはわからない事情があると薄々感じてはいたが、それを知ってしまったら、きっとこの束の間の逢瀬すらなくなってしまうだろう。
一目で心を奪われたのを初恋というなら、初恋の人に詩鶴は瓜二つだった。
額にかかる、薄い色の髪をかき上げたらきっと額の形も似ている気がする。
甘い子供の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「詩鶴、相変わらずやせっぽちだなぁ・・・。おやつ、何か食ったのか?」
「おやつ?冷蔵庫にシュークリームとプリンがあるよ。でも、詩鶴は飽きちゃったの。いつも、一緒だもん。」
「いつも?」
詩鶴の手を曳き、広い台所の冷蔵庫を開けて、天音は絶句した。
手つかずの、ショートケーキなども入ってはいるが、それらは洋酒を使ってあったり苦味のあるチョコレートを使ってあって、おそらく幼い詩鶴の口には合わないだろう。
・・・玄関先で、家政婦の声がしていた。
「そうなのよ~・・・どうせ、昼間は先生は自宅には帰ってこないし、子供は部屋で本とか読んでて、あたし暇なのよ。」
「ケーキとか買ってあるから、いらっしゃいって。大丈夫よ、いつも食べないようなのをわざと買ってきてあるから、あたしが・・・あっ!」
扉が開き、天音を認めると、瞬時に蒼白になった家政婦だった。
おそらくそこに誰かが居るなどと思いもしなかったに違いない。
天音はため息交じりに、冷蔵庫を閉めた。
先ほどの会話を丸ごと聞かれてしまったと思い、しどろもどろになる家政婦に、天音は皮肉を込めた。
「佐々岡さん。台所使わせてもらっていいかな。詩鶴とおやつにしようと思ったんだけど、大人向けすぎるみたいなんだ。」
「あ・・・の。でしたら、何かお作りしましょうか?」
天音は詩鶴を見やった。
「僕と一緒に、絵本のね、「しろくまちゃんのほっとけーき」作ろうか?」
「うんっ!「しろくまちゃんのほっとけーき」好き。」
詩鶴の好きな絵本「しろくまちゃんのほっとけーき」には、しろくまちゃんがお母さんと一緒にほっとけーきを作って、こぐまちゃんと分け合って食べるという場面がある。
いつか天音が、クリスマスプレゼントに贈った絵本を気に入って、今やすべての場面を暗記している詩鶴だった。
「ホットケーキミックスとかある?ホットプレートと・・・」
「ございますけど・・・でも。」
家政婦は先ほどの失態を取り戻すべく必死になっていたが、天音は整った顔を向けると優しく告げた。
「いつも大変でしょ?たまには遊んでやりたいから、佐々岡さんは休憩してて。後片付けだけ手伝ってください。声かけますから。」
兄弟のいない天音は、いつも詩鶴が可愛くてたまらなかった。
母のない寂びしさを口にしない従弟がいじらしく、何故か毛嫌いして否定する母親の気持ちをはかりかねていた。
「プレートに落とすとね、ぽたあん…って、音がするんだよ。」
エプロンをつけて、詩鶴は大張り切りだった。
どろどろ
ぴちぴちぴち
ぷつぷつ
「やけたかな?詩鶴。」
「まあだまだ。」
しゅっ
ぺたん
ふくふく
くんくん
「ぽいっ。」
「はい、できあがり。」
湯気の立つ、ふっくらとしたホットケーキに蜂蜜を掛けたら、大きな詩鶴の目はこぼれそうになっている。
声も出せないほど、簡単なホットケーキに感動していた。
お皿を三枚持ってくると、切り分けて詩鶴は台所から出てゆこうとする。
「詩鶴?」
「佐々岡さんの。」
あいつはお前の親父が出した生活費で、目が飛び出るほど高級なケーキを食ってるらしいからいいんだよ…とは、言えなかった。切り分けてしまったホットケーキを、父の分、おじさまの分、おばさまの分と、まだ分けようとするのでついに天音は詩鶴の耳元でささやいた。
「みんなに、内緒で食っちまおう。お兄ちゃんと詩鶴の秘密だ。」
「秘密?」
「詩鶴と、一緒に焼いたホットケーキ、すごくうまいからさ。お兄ちゃんは二人で全部食べたいんだ。」
「ひみつ~。」
詩鶴はにこにことうれしそうな顔をしていたが、やがて「ぼくの、あげる。」と言い、天音の皿に大きな一切れを乗せた。
天音は椅子を引くと、詩鶴を膝に乗せ黙々と食べ始めた。
時折、小さな口にぽんと放り込んでやる。
交互にほおり込むうち、だんだん腹が立ってきた。
「いったい、おじさんは何やってるんだよ。詩鶴がいつも一人でいるってのに。」
自分にもっと時間があればと思った。
人差し指で口の周りを撫でながら、ぺたぺたする~という詩鶴の、ほっぺたをぺろりと舐めた。
「いや~ん、天音お兄ちゃん。」
「蜂蜜が付いてるから、ホットケーキと間違えちゃった。」
甘い蜂蜜がしょっぱいのは、自分が泣いているからだと天音は気が付いた。
どうしようもなく愛おしい存在を、決して愛してはいけないと悟ったとき、いつも天音は思い出した。
小さな手で、懸命に卵を割って泡立てる姿。
大きなエプロンを引きずって、椅子の上に立ってお皿を洗う姿。
詩鶴の笑顔を、自分が打ち砕くなどとは、このころの天音は思いもしなかった。
********************************
「しろくまちゃんのほっとけーき」はこんな感じです。
拙作「新しいパパができました」の前の話になります。
詩鶴が生まれたところから、お話は始まります。
よろしくお願いします。
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10歳の年の差はどうしようもなく、受験を控えた天音は詩鶴と過ごす時間が減ってゆくのを気にしていた。
全国区の進学校、州灘高校でも常に上位の成績を保持する天音に周囲の期待は大きく、父親のように優秀な外科医師になる道を嘱望されていると感じていた。
「今度もA判定なのね。あなたはお祖父様に似たのね。お母さん、鼻が高いわ。」
気位の高い母は、天音が自分の理想通りに成長していると喜び、その愛はすべてわかりやすく過剰に注がれていた。
負担に思うこともあったが、それでも母の機嫌を損ねるわけには行かなかった。
母の怒りは、なぜか常に詩鶴に向かうから・・・。
「お母さん。この分だと医学部は大丈夫のようです。」
「僕の数学好きは、お母さんに似たんですね、きっと。正直、苦にならなくて助かってます。」
天音は自分に似た顔を覗き込むと、母の自尊心をくすぐった。
元来男子は、母に似るのだ。
天音の成績に母は満足し、その姿に息子は安堵する。
自分が期待に応えてさえいれば、母は夕凪のように穏やかでいられるのだ。
「お母さん。時間大丈夫ですか?笹塚のおばさまは、きっと首を長くしてお待ちですよ。」
「そうだわ、もう行かないと。今日は帰りも遅くなりますからね。お父さんにも伝えておいて。」
「ええ。」
めかし込んだ母は、車中の人となった。
歌舞伎を観劇するのだという。
天音は、めったに出かけようとしない母が出かけるのを待っていた。
「詩鶴!」
広い母屋のエントランスから声を掛けると、階段の上から小さな詩鶴の顔がぴょこんと覗いた。
「天音お兄ちゃん・・・?」
天音の背後に視線を廻らせる詩鶴に、手を大きく広げて声を掛けた。
「おいで!おばさまは、お出かけしてしまったよ。」
「お兄ちゃんと、一緒に遊ぼう!」
にこにこと大好きな天音が、詩鶴に向かって微笑む。
「天音お兄ちゃん!」
詩鶴は階段を4,5段残して、胸に飛び込んできた。
どんと尻もちをついた、天音の懐に居る詩鶴とこうして話をするのも二週間ぶりくらいだ。
「おっとーー!詩鶴、元気だったか?」
同じ敷地に住んで居ながら、殆ど言葉も交わせない二人だった。
子供にはわからない事情があると薄々感じてはいたが、それを知ってしまったら、きっとこの束の間の逢瀬すらなくなってしまうだろう。
一目で心を奪われたのを初恋というなら、初恋の人に詩鶴は瓜二つだった。
額にかかる、薄い色の髪をかき上げたらきっと額の形も似ている気がする。
甘い子供の匂いが、鼻腔をくすぐった。
「詩鶴、相変わらずやせっぽちだなぁ・・・。おやつ、何か食ったのか?」
「おやつ?冷蔵庫にシュークリームとプリンがあるよ。でも、詩鶴は飽きちゃったの。いつも、一緒だもん。」
「いつも?」
詩鶴の手を曳き、広い台所の冷蔵庫を開けて、天音は絶句した。
手つかずの、ショートケーキなども入ってはいるが、それらは洋酒を使ってあったり苦味のあるチョコレートを使ってあって、おそらく幼い詩鶴の口には合わないだろう。
・・・玄関先で、家政婦の声がしていた。
「そうなのよ~・・・どうせ、昼間は先生は自宅には帰ってこないし、子供は部屋で本とか読んでて、あたし暇なのよ。」
「ケーキとか買ってあるから、いらっしゃいって。大丈夫よ、いつも食べないようなのをわざと買ってきてあるから、あたしが・・・あっ!」
扉が開き、天音を認めると、瞬時に蒼白になった家政婦だった。
おそらくそこに誰かが居るなどと思いもしなかったに違いない。
天音はため息交じりに、冷蔵庫を閉めた。
先ほどの会話を丸ごと聞かれてしまったと思い、しどろもどろになる家政婦に、天音は皮肉を込めた。
「佐々岡さん。台所使わせてもらっていいかな。詩鶴とおやつにしようと思ったんだけど、大人向けすぎるみたいなんだ。」
「あ・・・の。でしたら、何かお作りしましょうか?」
天音は詩鶴を見やった。
「僕と一緒に、絵本のね、「しろくまちゃんのほっとけーき」作ろうか?」
「うんっ!「しろくまちゃんのほっとけーき」好き。」
詩鶴の好きな絵本「しろくまちゃんのほっとけーき」には、しろくまちゃんがお母さんと一緒にほっとけーきを作って、こぐまちゃんと分け合って食べるという場面がある。
いつか天音が、クリスマスプレゼントに贈った絵本を気に入って、今やすべての場面を暗記している詩鶴だった。
「ホットケーキミックスとかある?ホットプレートと・・・」
「ございますけど・・・でも。」
家政婦は先ほどの失態を取り戻すべく必死になっていたが、天音は整った顔を向けると優しく告げた。
「いつも大変でしょ?たまには遊んでやりたいから、佐々岡さんは休憩してて。後片付けだけ手伝ってください。声かけますから。」
兄弟のいない天音は、いつも詩鶴が可愛くてたまらなかった。
母のない寂びしさを口にしない従弟がいじらしく、何故か毛嫌いして否定する母親の気持ちをはかりかねていた。
「プレートに落とすとね、ぽたあん…って、音がするんだよ。」
エプロンをつけて、詩鶴は大張り切りだった。
どろどろ
ぴちぴちぴち
ぷつぷつ
「やけたかな?詩鶴。」
「まあだまだ。」
しゅっ
ぺたん
ふくふく
くんくん
「ぽいっ。」
「はい、できあがり。」
湯気の立つ、ふっくらとしたホットケーキに蜂蜜を掛けたら、大きな詩鶴の目はこぼれそうになっている。
声も出せないほど、簡単なホットケーキに感動していた。
お皿を三枚持ってくると、切り分けて詩鶴は台所から出てゆこうとする。
「詩鶴?」
「佐々岡さんの。」
あいつはお前の親父が出した生活費で、目が飛び出るほど高級なケーキを食ってるらしいからいいんだよ…とは、言えなかった。切り分けてしまったホットケーキを、父の分、おじさまの分、おばさまの分と、まだ分けようとするのでついに天音は詩鶴の耳元でささやいた。
「みんなに、内緒で食っちまおう。お兄ちゃんと詩鶴の秘密だ。」
「秘密?」
「詩鶴と、一緒に焼いたホットケーキ、すごくうまいからさ。お兄ちゃんは二人で全部食べたいんだ。」
「ひみつ~。」
詩鶴はにこにことうれしそうな顔をしていたが、やがて「ぼくの、あげる。」と言い、天音の皿に大きな一切れを乗せた。
天音は椅子を引くと、詩鶴を膝に乗せ黙々と食べ始めた。
時折、小さな口にぽんと放り込んでやる。
交互にほおり込むうち、だんだん腹が立ってきた。
「いったい、おじさんは何やってるんだよ。詩鶴がいつも一人でいるってのに。」
自分にもっと時間があればと思った。
人差し指で口の周りを撫でながら、ぺたぺたする~という詩鶴の、ほっぺたをぺろりと舐めた。
「いや~ん、天音お兄ちゃん。」
「蜂蜜が付いてるから、ホットケーキと間違えちゃった。」
甘い蜂蜜がしょっぱいのは、自分が泣いているからだと天音は気が付いた。
どうしようもなく愛おしい存在を、決して愛してはいけないと悟ったとき、いつも天音は思い出した。
小さな手で、懸命に卵を割って泡立てる姿。
大きなエプロンを引きずって、椅子の上に立ってお皿を洗う姿。
詩鶴の笑顔を、自分が打ち砕くなどとは、このころの天音は思いもしなかった。
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