びいどろ時舟 2
母が亡くなってからは、それまで住んでいた狭い部屋も、あっさり取り上げられた。
千歳と鏡は、離れて暮らすことになった。
皮膚の薄い子どもの指を酷いあかぎれにしながら、姉さんと呼ぶ遊女の腰巻や汚れ物を山ほど洗濯するのが見習い男衆、鏡の日課になった。
風呂の薪を割り、下足番をし、男衆に思いつきでこづかれ、たまには乱暴に殴られた。
鏡の身体に、いつもどこかしこに痣が付いていた。
朝から晩まで、鏡はさまざまな雑用を押し付けられている。
夢見ることも許されず、生かされず、殺されず、生殺しの状態で蒲団部屋の片隅で暗闇をにらみ、密かに息をつめていた。他の世界を知らない鏡は、世間はこういうものなのだろうとぼんやりと思っていた。
4つ上の見目良い姉が、すぐに花魁付きの禿(かむろ)になったおかげで、どうにか日々の食い扶持を得た。
何とかこの年まで育ったが、自分と同じように生まれた混血で育ったものはとても少なかった。
昨日も、隣の廓で一人の下働きが死んだ。
寒い朝に夏の粗末な袷一枚で、氷柱のようになって凍え死んだ吉ちゃんは、死んでからやっと廓の外へ出られた。
吉(きち)は、台所でつまみ食いをして許されず、井戸端で賄い方に何杯も水を掛けられ、とうとう凍えて死んだのだ。
小さな棺桶が不浄口から出てゆくのを、鏡は何とか見送った。
「吉っちゃん、間違わんで、おっかさんの所へ行くとよぉ。もう、泣かんばい・・おっかさんに甘ゆっとよ・・・。」
死んでしまえば、寺の無縁仏の壕に投げ入れられて、静かに土にかえるだけの話だった。蛆虫がわかないように、亡骸の上に白い消石灰が投げ込まれる。
花を手向けるものなど、一人も居ない。口が一つ、減っただけのことだ。
唐人との混血の吉は、やはり廓で生まれた混血だった。
同じ年ごろの二人、仲よくなるのに理由はいらなかった。
寒い日には、鏡と二人猫のように裏口で示し合せ、蒲団部屋の片隅でぎゅっと抱きあって暖を取りあった。
「吉ちゃん、寒かね。」
「ん。こがんにして、懐に手ば入れたらぬっかよ。」
そう思えば、母と姉が太夫まで極めた鏡は、吉と比べてもまともに食い扶持があっただけでも、ましな方だったのかもしれない。
いつしか世間の仕打ちに涙も枯れ果てて、たまに二階の窓辺に座る千歳花魁の姿を眺めるのだけが楽しみになっていた。
母によく似た千歳花魁は、いよいよ眩く輝く存在になっている。
「鏡や、元気しとんね?」
目線をあげず、こくりと頷く。
「ちょいとお待ちよ。いいものをあげようよ。」
金のない身では、例え身内と言えども、最高位の太夫との会話は許されない。
時折、声と一緒にぽとりと菓子やら餡餅やらが懐紙に包まれて落ちて来るのを、ありがたく拾った。
「ありがとぉ。」
幼い頃は、慈母観音のように、優しい笑みを浮かべた千歳花魁に似ていると言われるのが、血がつながっていると確認できたようで嬉しかったが、今はわざと、顔を煤(すす)で汚していた。
同じ顔だと、周囲に悟られないように・・・。
花街には色々な輩がいる。千歳花魁の同じ顔の男衆見習いが、水月にいるなどと知られたら何が起こるか分からない。自分で身を守るには、目立たぬことと知っている鏡は、目立つ顔を上げられなくなっていた。
なのに今・・・鏡は、とうに忘れたはずの涙の溜まりを作って、地獄で責める馬頭鬼の、白い足先を見ている。
「ゆ・・・許してくれんね。」
・・・今。
男衆見習いの鏡(かがみ)は、水月楼の帳場に引き据えられて、女将直々の頼みごとと言う名の恫喝を受けていた。
先ほどまで、自分を捕らえようとする手を必死に振り切ろうとしたが、全て徒労に終わった。廓の中を逃げ惑って走り回ったが、角々に棒手振りや追っ手がいてとうとう男衆に散々打ちのめされてしまった。
「かわいそうにねぇ・・・こんなになるまで痛めつけるなんてさ。」
「あたしねぇ、鏡、大事な顔には傷を付けるなって言ったんだよ。」
口では優しくそういいながら、乱暴に後ろ髪を掴んで顎を上げさせると傷を確認した。
鏡の顔が、亡八の眼前に晒された。
(´・ω・`) 長崎弁は変換サイトを使っています。なので、時々変な言葉遣いとかも入るかもしれません。
お見苦しかったら、教えていただければうれしいです。
柏手もポチもありがとうございます。
励みになりますので、応援よろしくお願いします。
コメント、感想等もお待ちしております。 此花咲耶
千歳と鏡は、離れて暮らすことになった。
皮膚の薄い子どもの指を酷いあかぎれにしながら、姉さんと呼ぶ遊女の腰巻や汚れ物を山ほど洗濯するのが見習い男衆、鏡の日課になった。
風呂の薪を割り、下足番をし、男衆に思いつきでこづかれ、たまには乱暴に殴られた。
鏡の身体に、いつもどこかしこに痣が付いていた。
朝から晩まで、鏡はさまざまな雑用を押し付けられている。
夢見ることも許されず、生かされず、殺されず、生殺しの状態で蒲団部屋の片隅で暗闇をにらみ、密かに息をつめていた。他の世界を知らない鏡は、世間はこういうものなのだろうとぼんやりと思っていた。
4つ上の見目良い姉が、すぐに花魁付きの禿(かむろ)になったおかげで、どうにか日々の食い扶持を得た。
何とかこの年まで育ったが、自分と同じように生まれた混血で育ったものはとても少なかった。
昨日も、隣の廓で一人の下働きが死んだ。
寒い朝に夏の粗末な袷一枚で、氷柱のようになって凍え死んだ吉ちゃんは、死んでからやっと廓の外へ出られた。
吉(きち)は、台所でつまみ食いをして許されず、井戸端で賄い方に何杯も水を掛けられ、とうとう凍えて死んだのだ。
小さな棺桶が不浄口から出てゆくのを、鏡は何とか見送った。
「吉っちゃん、間違わんで、おっかさんの所へ行くとよぉ。もう、泣かんばい・・おっかさんに甘ゆっとよ・・・。」
死んでしまえば、寺の無縁仏の壕に投げ入れられて、静かに土にかえるだけの話だった。蛆虫がわかないように、亡骸の上に白い消石灰が投げ込まれる。
花を手向けるものなど、一人も居ない。口が一つ、減っただけのことだ。
唐人との混血の吉は、やはり廓で生まれた混血だった。
同じ年ごろの二人、仲よくなるのに理由はいらなかった。
寒い日には、鏡と二人猫のように裏口で示し合せ、蒲団部屋の片隅でぎゅっと抱きあって暖を取りあった。
「吉ちゃん、寒かね。」
「ん。こがんにして、懐に手ば入れたらぬっかよ。」
そう思えば、母と姉が太夫まで極めた鏡は、吉と比べてもまともに食い扶持があっただけでも、ましな方だったのかもしれない。
いつしか世間の仕打ちに涙も枯れ果てて、たまに二階の窓辺に座る千歳花魁の姿を眺めるのだけが楽しみになっていた。
母によく似た千歳花魁は、いよいよ眩く輝く存在になっている。
「鏡や、元気しとんね?」
目線をあげず、こくりと頷く。
「ちょいとお待ちよ。いいものをあげようよ。」
金のない身では、例え身内と言えども、最高位の太夫との会話は許されない。
時折、声と一緒にぽとりと菓子やら餡餅やらが懐紙に包まれて落ちて来るのを、ありがたく拾った。
「ありがとぉ。」
幼い頃は、慈母観音のように、優しい笑みを浮かべた千歳花魁に似ていると言われるのが、血がつながっていると確認できたようで嬉しかったが、今はわざと、顔を煤(すす)で汚していた。
同じ顔だと、周囲に悟られないように・・・。
花街には色々な輩がいる。千歳花魁の同じ顔の男衆見習いが、水月にいるなどと知られたら何が起こるか分からない。自分で身を守るには、目立たぬことと知っている鏡は、目立つ顔を上げられなくなっていた。
なのに今・・・鏡は、とうに忘れたはずの涙の溜まりを作って、地獄で責める馬頭鬼の、白い足先を見ている。
「ゆ・・・許してくれんね。」
・・・今。
男衆見習いの鏡(かがみ)は、水月楼の帳場に引き据えられて、女将直々の頼みごとと言う名の恫喝を受けていた。
先ほどまで、自分を捕らえようとする手を必死に振り切ろうとしたが、全て徒労に終わった。廓の中を逃げ惑って走り回ったが、角々に棒手振りや追っ手がいてとうとう男衆に散々打ちのめされてしまった。
「かわいそうにねぇ・・・こんなになるまで痛めつけるなんてさ。」
「あたしねぇ、鏡、大事な顔には傷を付けるなって言ったんだよ。」
口では優しくそういいながら、乱暴に後ろ髪を掴んで顎を上げさせると傷を確認した。
鏡の顔が、亡八の眼前に晒された。
(´・ω・`) 長崎弁は変換サイトを使っています。なので、時々変な言葉遣いとかも入るかもしれません。
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